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2014年1月31日金曜日

@ 私をお守りください。 詩編16

神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」 詩編16:1~2


 ダビデも経験したように、私達にも人生において苦難や試練があります。次々と問題が起きてきます。経済的なこと、病気、言われのない誤解、対人関係や多種多様な問題事件等々。上げる切りがないです。

しかし 私達には生ける神 キリストが付いておられます。8節を見るならば、『主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』と書いてあります。

それでも、その実感が湧かないときもあります。神を遠目に見てしまい、神が私達を救い出そうとしているにもかかわらず。傍観者になってしまいます。

オバデア 1:12  『あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。』

何か大変なことが起きても、何か自分のこととして感じられす、遠い存在として神と聖書を見てしまいがちです。

ヤコブ1:22 ~24 『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。御言葉を聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの自分の顔を鏡で見る人のようです。
 自分を眺めてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。』

聖書には素晴らしい救いと約束。癒しの完成も書かれています。遠い世界のことでもなく。あなたの右におられる神イエスが、ご自身の言葉と行動を持って、全ての幸いを保証しておられます。どうぞ、思い巡らして下さい。聖書に書かれていることを思い巡らして事実として受け止め受け入れるのです。感情的に感じる、感覚的になることではないです。

キリストに在る幸いと、他の神々が言う幸いの違いは何でしょう。そこには命が在るか無いかです。キリストには十字架の愛、その命を懸けた愛が詰まっています。ダビデも告白しています。

詩編16:4~8 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。

主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
 私は助言を下さった 主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。


神の言葉と慰めと、励まし。恵みは現実なのです。 そうとは受け取れない、祈っても答えがなかったという方もおられるでしょうか。
答えが来るまでには、神の計画があります。答えが来ないのではなく、神のお心があるだけです。あなたの祈りは天に覚えられていま
す。   


イザヤ62:4~6を見てください。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。

このイザヤの言葉をあなたの人生に適用しようではありませんか。
主が答えられるときまで、見張りを立てましょう。祈り継ぐ決心があれば、あなたの願いの答えを見る事が出来ます。
あなたの身の上に起こることを想像(イメージ)し続けて、諦めないで下さい。想像は新しい夢を運び、事実を神によって創造されるのです。信じた、告白したとおりになるのです。

ダビデが確信したように、よみに下ることがない永遠の命が、私達には与えられています。復活するのです。
詩編16:10~11

 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

イエスの復活を、ダビデはここで預言しているのです。

使徒2:31~32 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です

私達には、他の神々が語っていない、復活があります。 究極の癒しです。 この日本にも、アフリカからのニュースが伝わってきています。 死人がよみがえったと言うニュースです。13~15年前に、ケニアのトーマス牧師です。 

最近では、ジョセファット・カジマ牧師です。信じる者の力を見せて頂いた気がします。 これらの証しは、主イエスにあって、私達のものです。死人の癒しが在るならば、現在。生きているあなたの癒しは当然主に在って癒やされます。 主の御名が崇められますように。

 死人のよみがえりを観たことが無いと・・信じないという方もいます。見ないと信じないないトマスと同じ考え方になります。

強いて言えば、聖書全体も見ないと信じられなくなる気がします。この点が信仰の強さでも在り 弱さです。

見たからでも無く、感情や感覚で聖書を見るのではなく、聖書が神の言葉として、書かれておる事を真実にとして受け止めるのです。 
神を見ていても・・罪を犯したユダヤ人の様子が出エジプト記に書かれています。 神の声を聞いていたダビデも・・罪を犯します。当然私たちも素晴らしい奇跡を見聞きしていたとしても罪を犯します。 へりくだり謙虚にならないといけないですね。


主に在る、その御前にある喜びは、私達のものなのです。16;11

2014年1月29日水曜日

@ 願いを伝え,知ってください。

話さないと伝わらない。

理解をしてもらいたいと情熱が無いと話さないし伝わらない。

父なる神は、全能であっても、神は会話と交わることからの人格的な交流をを好まれる。

神は時々,無言になるのは,私たち人間も同じだね。

でも、時を隔てても,神の私たちの思いを知っていてくださる。

時が来たら,実現してくださる。

時にはヤコブのように,面と向かって神と相撲を取るかのように,

対決しないといけないときもある。

神は私たちを見捨てない。でも黙っていても駄目。

同じように 私たち人間側も,神を見捨てない。諦めない。

忍耐と無言の時期が,愛を確かめ合う,大事なときが流れている。

アブラハムに、神が約束して、その子イサクを得るまでの25年間


ノアが箱船に入ってからも、7日間は,雨が降らなかった。

ノアが疑っても可笑しくない時間が流れていた。

疑っても不思議では無い。悪くは無い。神を信じ無いとことが問題だ。

神にそれを話さない,感謝しない事が問題だ。それは罪を犯すことにつながる。

*********************************

何も思い煩わないで,あらゆる場合に、感謝を持って捧げる祈りと願いによって,

あなた方の願いを神に知って頂きなさい。ピリピ4:6

2014年1月28日火曜日

@ 誰が、あなたの聖なる山に住むのでしょう.詩編15より


主よ。誰があなたの幕屋に宿るのでしょうか。
詩編15:1

 ダビデは賛歌としてこの詩篇を詠いました。

 彼ダビデは神の幕屋に誰が宿れるのかを聞いています。聖なる山、神殿の建つ山に住めるかを聞いています。普通の常識を越えて・・当時は幕屋、神殿は聖域でした。大祭司が年に一度だけ、それも一時だけ入る事だけが許される聖域でした。その所で間違った行動をするならば、たちどころに神の臨在で死んでしまうほどの聖域でした。

 でもダビデは、そんな聖域に住みたい宿りたいと願ったのです。本来は不可能な場所でも、神に近づきたい願いがあったからです。神に近づき臨在に満たされるなら。 交わり続けらることが、彼の願いでした。神の臨在に触れられて死を覚悟してまでも・・例え不可能であったとしても・・ 彼の熱心はそれほどに強かった告白です。

 私達は、彼ダビデほどの熱心を持って、神を礼拝するために近づこうとしているでしょうか?何か自分の願い達成だけのために、神に近づいていないだろうか。 神が神であるが為に、礼拝するためだけに、飢え乾きを持って神に近きましょう。

今日の私たちは、イエス様の血によって、自由に聖所に入る事が出来る万人祭司なのです。その価値を再認識しましょう。ダビデは願っても出来なかったことを、私達はイエスの血を通しての身分を頂きました。この素晴らしい地位を認識し、イエス様の血潮の価値を痛感しましょう。

その価値を身分を守り得る資格も書いてあります。

正しく歩み、義を行い、心で真実を語る者。と書かれています。クリスチャンとして、襟をただしましょう。言葉を持って人をそしらす、友人に悪を行わないと書いてあります。 隣人の非難を口にしない人とも書いてあります。

 今はネット社会です。私がある検索で調べていると、クリスチャンが、クリスチャンを非難しているしているサイトに突き当たりました。とても悲しい気持ちになりました。ネットは書いた本人が削除しない限り、いつまでも残ります。その非難に対しても同調して賛成意見コメントを述べている者もクリスチャンでした。臭い物に蓋をせよとは、私は申しません。

事件を侵した者は、国の法律で裁かれます。私達もそのような似た事件を、いつ犯すとも限らない弱い存在です。ネットで・・またその他のメディア媒介で断罪する者、同調して非難する者の心は晴れるでしょう。未信者が偶然。そのサイトを見たらどのように思うのでしょうか。 事件性のないことで、教理に関して、信仰姿勢に対しても非難と断裁しているサイトも悲しくなりました。非難さえ避け、協調し過ぎなければ、三位一体の神なのです。何処かで一致点が見つかるのです。




それよりも、神の国が落とし入れられ、傷つく気がします。悲しむのは十字架にかかってまでも、私達のためにとりなして祈って下さった、イエス様ではないでしょうか?神の国の法律は許しと、その罪を犯した、まちがった人のために、とりなして祷りを捧げることなのです。 非難と断罪ではないのです。断罪は、神のなさる事です。私達は罪からの回復を祝して祈り願う者でありたいです。

 神は隣人の為にとりなして祈って・・万人祭司として人々を愛する事、仕える事を願っておられます。この詩編15には、他にも神殿、教会に住む者、集う者への警告でも在り、神の願いでもあります。キリストの体を通して、教会に、神の神殿に住んで欲しいと願っておられる神の願いと条件です。 私達が聖霊の宮として、神が住める体に変えられてゆきましょう。ダビデの熱心を追いながら・・

2014年1月26日日曜日

@期待に応えたい。

神よ。あなたの期待に応えたい。

私のために 祈り支えて下さる方々がいます。

その人々のためにも・・成果が見える様になりたい。

第一には,神の国とその栄光のために・・その領域を広げるために、

どうぞ!私を用いて下さい。私は此処の待機しています。



アブラハムも・・モーゼも・・カレブさえも 80歳を超えて用いられたけれども

私も67歳になってしまいました。 その時を早めて下さい。

諦めない。 辞めない。あなたの栄光を肌で感じるまでは・・

今までも、あなたの栄光、あなたの愛を見せて頂きました。

痴呆の母や癒やされて。私の癌も癒やされた。

目や耳の病も癒やされました。歩けないと言った車いすからも立ち上がった人さえもいます。

食べる物が無くなったときに,あなたは私の米びつの底にあった米を増やして下さいましたね。

あの時の奇跡の感動は、時の流れと共に薄らいできました。


神よ!あなたのを栄光と愛を、再ぶ、新しくして見せてください。

1番観たいのは多くの人が、あなたの愛によって,貴い犠牲によって

一人でも多く救われて,神の国の領域が広がった事を見たいのです。

その時までは死にたくは無い!その時まで長生きしたい。

歳は重ねても・・夢を追い続けたい。ビジョンの火を消しません。

神よ!キリストの名によって 聖霊の助けと導きを現してください。

私の人生の中で・・

あなたが喜んで下さることを,少しでもしたいのですから・・












2014年1月24日金曜日

@ 神を尋ねる人は・・詩編14

詩編14

14:2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。

  天地の作り主であり、エル・シャダイ=全能の神は、私達の魂と霊を探し求めておられます。アダムを神の作られた地上を治める者として創造されました。それは同時に、アダムを神の共として、礼拝する者として神に仕える者としての地位権利を与えられました。

 しかし、サタンはその権利と地位をねたみ、アダムをだましてました。

霊の世界における地位と権利を奪い去りました。ただ唯一。神を礼拝する者として残されたのです。

神の一人子であるイエスをこの世にもう一度。第二のアダムとして送り込まれました。

その契約はアブラハムを通して実現されました。それ以来。神の救いの契約を信じ求める者に、この特権を与えられるようになさいました。神。エル・シャダイは、私達の霊と魂
を探し求めておられます。

   この世の霊的権利を奪い支配者となったサタンは、神の新しい契約、私達との契約を嫌い、引き裂こうとあらゆる手段で困らせ、困惑させてきます。そのような事態に陥っては「神もほとけもあるもんか!!」とつぶやく。神への期待信頼から裏切られた絶望感にさいなまされた人々は神を捨てます。
  
悟りある者は試練として乗り切ることが出来ます。あらゆる困惑、失望からの中でも、賢明に神を見いだすことが出来ます。絶望した心で物事を見つめるのか?

消えそうな灯心の様であっても、聖霊の風が吹き再び燃えることが出来ると信じて待つ。神の臨在を失望のどん底からでも、悟りを持って神を探すかの大きな違いがあります。

神は大きな愛いと忍耐を持って、私達の霊的な帰還を待っておられるのです。

  ヤコブ 4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。



2014年1月17日金曜日

@ 天の父ちゃん アバ・・詩編13


私を苦しめる者が、動揺する私を見て喜ぶことのないように。 あなたの慈しみに依り頼みます。私の心は御救いに喜び踊り 『主に向かって歌います。主は私に酬いてくださった』と 
                          詩編13:5~6 共同訳

私達は神に祈ります。特に私達に襲いかかる苦しみの時。 しかし、神は何故か無視しておられるかのように感じたりします。また、私達の祈りの答えを忠介をしたり運んでくれたり、良い知らせを伝えてくれる天使さえも、私達の側から離れたかのような時を過ごすことがあります。

アバと叫んで泣いて祈り・・泣いて状況が変わるように祈っても・・ それらが全部、天井に祈りが跳ね返ってくる気がしたことがないでしょうか?毎日、毎日。同じ事の繰り返し。心は衰え、嘆きの声が続く日々・・ 状況は変わりません。


 私達の敵、日々の問題は一層の勢力まして、私達をあざ笑い責めてきます。私達の敵は、私達が衰えて動揺するのを楽しむかのように、私達が祈りを止めるのを喜び楽しんでいます。

 この詩編作者のダビデは、最初の妻にあざ笑われました。 義父からは疑いを掛けられ、追われる身と成りました。
聖徒の集まりと言われる教会の中で、私達の信仰に疑いを掛けられたり、あなたの使命感はおかしいと言われたり、それは賜物ではないと言われたり・・ 一般社会の中で置いては、職場の中でも。。良いことだと行動したら、逆にたしなめられたり。。急な解雇にあったり・・ 色々の問題や悩みが次々、私達を襲ってきます。

  でも、立ち止まり、黙想してみれば、神はいつも良い素敵なことをして下さる方です。神の慈しみに依り頼みましょう。神の救いは確実にやってきます。 何が足らなくて、問題が起きてくるのでしょう。

 ダビデは苦しみの中から、神により頼んで賛美を捧げています。

 イスラエルが敵の前で、彼らの軍隊の前には必ず賛美を捧げる音楽隊を先頭に立たせました。聖歌隊や楽器を使って敵を打ち負かせたのは、神や天使が働いて下さいました。 弱腰になって、聖歌隊や楽器隊を組織しなかったときには、イスラエルは敗北をする結果と成りました。

詩編22:3 神は賛美を住まいとして、その賛美の中に臨在を表して下さいます。エペソ5:19 いつでも賛美を捧げることを、神は喜ばれます。ヘブル13:15 賛美は神が一番喜ばれる生け贄です。

あなたが例え虐げられ、苦しめられようとも、あなたは決して、神の計画からもれるようなことはないのです。強いて結えば、祈った本人が、答えを先に出してしまうことです。諦めたという答えをです。 神はあなたを諦めてはいないのです。祈りの答えを出す一番のタイミングを図られる方です。

そのためには、いつでも喜んで賛美し続ける事が大切です。ハバクク書3:17~19 を見るならば、収穫が消えました。
今まで積み上げてきた人生の収穫が消え去りました。希望が嘆きに変わりました。

 けれど、不平や不満、不安よりは・・嘆きよりは賛美を、いける神、イエス様に捧げましょう。

ダビデも、苦しみの中にあっても、賛美を捧げました。神は賛美を通して顧みられます。

 人生の収穫が無くなった。行き詰まったなら、神と共に出直す機会です。何か失ったときは、再出発のチャンスです。その失った者を、神と共に、恵みを受けて 倍にして返して頂けるのですから。 賛美は神への信頼の証しです。 どんなときでも、賛美して神の手が動く時を待ちましょう。 神は、アバ父は、私達を決して見捨てない方です。

2014年1月13日月曜日

@ 悩む人を踏みにじらない方とは・・詩編12

悩む人を踏みにじらない方とは・・ 詩編12

主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今。私は立ち上がる。
わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」主の御言葉は混じりけのない言葉。
土の炉で七回もためされ純化された銀 詩編12:5~6

 東北関東震災では、多くの人々が避難所での過酷な生活に追われています。
彼らの嘆きと祈りは、必ず神に届くと信じて祈りつつ。

 さて混じりけのない金銀の輝きを知っていますか?それはクールな美しい輝きです。
銀の元になる物には、不純物が多い鉱石です。そのことを暗示させるかのように、ダビデは、彼にへつらう人のことを冒頭に語っています。聖徒との純粋さではなく、偽りのへつらいで彼に近づいては裏切りました。 彼もそのことで嘆いています。その救いを神に尋ね求めました。2節

神の言葉は純粋な銀のようで、輝いていることもダビデは知っていました。彼はその素晴らしさを賛美しています。主なる神も、その賛美に応答して立ち上がって救い出されると言われました。それも単に救うだけではなく、私達の願うように、求めに応じると言われました。「ハレルヤ!あなたの願いが、今日。聞かれました。」と私達はいつも聞きます。
また祈った後には、「主よ。信じます」と答えます。




 あなたは盲人のために祈ったら、その答えが来て、その盲人のめが見えるようになると信じ続けますか?その答えを見るまで・・「主の愛するあの人を救って下さい。」と祈ったら必ず、その祈った方が救われる日が来ることを信じ続けますか? 即答、直ぐに祷りの答えがないときに、あなたは諦めて・・二心にはなりませんか? 何処かに、神からの即答がない理由を、あなたの心の中に見つけてしまいませんか?

そうです。確かに、信じ続けることは困難です。即答される時もあれば、1年。2年神からの答えがないです。いいえ!10年、20年と答えがなかったら・・二心になってゆきませんか。 「信じると言ったけれど・・、私は信仰が弱い人間だから・・神は私を忘れておられるな~。そうだ! 答えなんか元々無かったんだ!」

『唇は我々の物だ。』 4節 不平は二心を生み出します。信じようが、信じまいが、我々の勝手なんだと・・聖書は祷り求めるなら答えが来る、信じたとおりになると語ります。 『私より、素晴らしく大きな業をする。』とイエス様が言いました。 

信じ続けて何時間も、何日も・・祈り続けて、死人を生き返らさせた牧師がいます。 彼は諦めなかったのです。彼の名は、トーマス・ムティー牧師(ケニア) また、ジョセファット・ガジマ牧師。
 タンザニアがおられる事も事実です。 普通なら「死人の蘇り?これは出来ないと先に思い込んでしまいす。」 自分の信仰の力を見てしまうからです。(この件では異端だと反論を展開している方も・・ネット上にお見かけしています。けれど神に,信仰には無限で出来ない事は無いのです。小さな信仰でさえも,山を動かす事が出来ると聖書には書いてあります。)


 神は私達の土の器を製錬なさいます。私達の素質を見いだして、まるで鉱石から製錬して銀を取り出すかのように。聖霊の宮へと導かれます。貧しい心を、金の輝きに代えてくださいます。
私達の輝きを増して磨いてくださる、聖書の言葉によって・・

 
神の言葉は感情や人の思いではうごきません。 
聖書の御言葉には、神の意志が書かれています。 その神は言われます。「私は立ち上がる。私は彼を、その求める救いに入れよう。」と言われます。 私達の心の中では二心ではなく、神を信じ続けましょう。 御言葉は輝く銀のように純粋です。その純粋さの故に、祷りには答えてくださると確信しましょう。

 7歳の女の子が、始めてキリストの福音を聞きました。彼女が信じて、洗礼を受けたのは、なんと80年後でした。

7歳の女の子に、福音を届けた最初の方の祈りが80年後に聞かれたのです。当然ながら、その方は既に亡くなっておられましたが、主なる神はその時。7歳の女の子が、神と出合っても素直に信じられない環境から、7歳の女の子が、神キリストを信じられる環境の時を待ち続けて、最初に彼女に福音を語った人の祷りに答えを出したのでした。

さて女の子とは、私の母でした。母が八七歳の時に洗礼を受けた日に、私は始めて、母の口から聞き、驚きました。仏教を信じていた母には、キリストからは、ほど遠いことを知っていたからです。

まして母は痴呆症にもなり全ての記憶が2年間。全く失われていました。神は奇跡を起こされ、記憶を回復させてから、キリストを信じるようになさいました。母が7歳の頃に福音を聞いてから、途中には戦争もありました。80年の月日が流れ、最初に母が救われるように祈った方の祈りに答えを出したのです。

神の言葉は純銀以上の輝きがあります。 
世界を純化 精錬する唯一なもの、それは既に持っておられる、あなたへの神の言葉、聖書の言葉なのです。

 神はへりくだる者の心を無駄にははなさらないです。

2014年1月6日月曜日

@ 拠り所が壊されたら 詩編 11

心の直ぐな人を射ぬこうとをしている。
拠り所が壊されたら正しい者には何が出来ようか。詩編11:2~3


 ダビデは、彼に襲いかかる敵に対してのあざけりの声を聞きました。神に身を避けているにもかかわらず、あざける声を聞きました。 ダビデの信じる天地創造の神。

父なる神をあざけるかのような声を・・彼だけなく私達にも、彼と同様な声を聞きましす。そのキリストを棄ててしまいなさいと・・
信じても何になるとか・・



 確かに試練は来ます。または、あなたの信じ方はおかしいと言われたりもします。誤解や中傷あります。でも、そのよう時には、聖書を調べてみましょう。神の言葉の確かさを見ましょう。

使徒行伝17:11 聖書を、私達が調べるように、神様も私達の心を調べます。「その瞼は、人の子を調べる。主は正しい者と悪者を調べられる」詩編11:4~5

 
 同じ聖書。神の言葉であっても、受け取り方には、違いが出てきます。それは神の目からの解釈、人の立場からの解釈で微妙に違いが出てきます。その人の経験や思考の影響は否めません。神の言葉。聖書は、主の心、神の考え方から発せられました。
神のお気持ちになって、神の立場から理解をしなければと思いませんか?

 それにしても色々の困難、試練がありますね。ダビデも幾多の試練を受け、またダビデも過ちもしました。そのたびに、神の元に立ち返る悔い改めをしました。私達に完全ではないですから、過ちは犯します。

 けれど試練は、神に愛されている事を知るためにも起きる試練があります。「試練や患難は、私達を神に近づけます。ローマ5:3~4」また信仰を深める試練もあります。ヤコブ1:2~3

 悪魔の試みは、神に対しての不信感を増し加えさせて、私達の無力さを噛み締めさせては、神から離れさせようとして働きます。また、私達の過去の罪を告発して、私達の無能さを思い知らせようとします。

 また『隣人を愛しなさい。』と、神は語っておられます。しかし無用に、戦いを挑んで、隣人に対して怒りや憎しみを植え付けさせようともします。


 神の救いは完全です。神は、私達を私生児として扱いません。その試みや懲らしめが大きければ大きいほど、本当に神の子である事を確かめる機会となります。

 神からの試練は神の子としての取り扱いである特徴があります。ダビデは、洞穴で寝入っていたサウルの衣を切っても、命は取りませんでした。

その時点のサウル王。神の立てられた権威に対する服従の念からでした。ダビデが試練に勝利したように、神は私達の心を見られます。神に愛される人になりたいですね。

2014年1月5日日曜日

@ 詩編10より 苦しみの時、なぜ、身をかくされるのですか

  主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。
苦しみの時、なぜ、身をかくされるのですか。 1節


 当然、思いもよらぬ事が、身に襲いかかります。

 かって経験したことのない地震と被害が北日本を襲いました。
この様なときには、とんでもないデマや風評もあります。
神の裁きだと言い出す人もいますが、決してそうではないと思います。

 突然の病気、いわれのない濡れ衣。経済的な苦難、誰かに誤解されたり、私達が行っていることに対する事への不理解などがあります。私達を落とし入れようとする動き。私達に対して高ぶった意見、デマなどで困惑させたりもします。

 理解を超えることが日常茶飯事に、神が関わって頂けないような気もしてきます。次々と問題が起きてくるからです。
ヨブに意見を述べた3人の賢者のように優れた意見で、私達を責めたりもします。神が居るなら,あのような地震や津波があったのだ!と文句も言う方もいます。

 神は黙認をしておられるかのようです。祈りや嘆きにも、神は耳を傾けてくれないのですか?。祈りは天井に跳ね返るように帰ってきてしまいます。急にむなしさにも襲われます。

 主よ。立ち上がって下さい。神よ、御手を上げて下さい。
どうか、貧しい者を、忘れないで下さい。12節

 神は私達の叫びを聞き届ける耳と力をお持ちです。
よく思い起こせば、神の姿に似せて創られたことを・・
耳や目が神に似せて創られたのですから・・

 悲痛な状態下で、神を求める事は苦痛にも似ています。
祈りたくても祈れない。神は私達を忘れられたのでしょうか。

 懸命に祈る事が出来なくなります。目は曇り、耳はふさがれたかのように感じます。困惑の中でただ涙があふれるだけです。
神は何事にも無関心で、答えられない気がしてきます。

 時として、神は私達が苦痛に圧倒されることを許されることがあります。それも、私達を暗黙の暗闇を通されて、神ご自身が実は近くに存在しておられる事を、私達に知らされるために。

 身近におられる神を、私達自身が見つけるために導かれるために、暗黙中を通されます。そのことによってより深い信頼関係を築く為に。そのことによって、より一層、私達を強く愛しておられる事を知らせるために。

 アブラハムが神の捧げ物を用意しました。けれど、最初に来たのは,神では無くてカラスがきました。望む事。神は直ぐに来なかったのです。次は来たのは睡魔です。彼は自分と睡魔と闘います。待ちくたびれる真夜中に,神は、火をもって,アブラハムの捧げ物 生け贄の間を通られたのです。

     YouTube動画   ⇒Foot print 足跡 私の作成した動画をご覧下さい。   

 私達は、自分の感じる事だけに頼ってはいけません。

 感覚や感動では神を信じてはいけないのです。 信仰は感覚や感動だけでは信じても、時間。年月が過ぎますと、それらは薄れてゆきます。

 神を感じなさいとか、聖霊を感じなさいと勧める方もおられます。それは、それで大切です。

 しかしそれ以上に、感覚とか感情以上に大切なこと。
神の言葉。聖書によってのみ、その言葉を信じることによって、
培われ養われる者です。子供のいないアブラハムは、神からの言葉を信じて、義とされました。創世記15章6

 神の臨在は感じないで、被い隠されていても、主の声が、あなたの耳に直接、聞こえなくても。

しかし、主はその陰にはおられます。 私達を昼も夜も、寝ているときにも、私達を守り続けておられるのです。 迷ったら,聖書を読みましょう。聖書の・・神の言葉を待ちましょう


詩 46:5 神は、その真ん中にいまし、その都はゆるがない。
神は夜明け前にこれを助けられ・・と書かれています。

 私達が罪を犯して、神から離れているときにでさえ、主エス様は、父なる神の前にとりなして下さっておられるのです。信仰が無くならないように、私達のために祈って下さるのは、他ならぬ主イエス様です。 

周囲の激しい変化にも恐れないで下さい。主はインマヌエル。 共におられる神です。

 あなたの中にある暗黒をすなおに、イエス様に語りかけて告白し、神を待ち望みましょう。

 アブラハムが暗闇の中で,カラスや獣を追い払い、失望しかける睡魔とも闘いながら,神の臨在を持ち続けたのです。

2014年1月3日金曜日

私があなたなしで生きなければならないならば。。

私があなたなしで生きなければならないならば、

すべての日々はむなしいです。
夜は、とても長いと感じていた。。
あなたに出会って永遠にわかったこと。
とても明らかに・・分かったことは、
私は、貴方に恋をしていたかもしれません
しかし、始めは決してこれが強いと感じませんでした

私たちの夢と願いを、貴方はそれを知っています
すぐに私を抱いて、すぐに私に触れてください
私は、あなたなしで生きたくありません。



私の愛を何に事にも変えられないこと
私がどんなにあなたを愛しているか知っています。
けれども、私がどれだけ貴方を愛しているのかを試して、私を苦しめないでください。
あなたの愛より多くのものを決して求めないでください。
人は苦しみ試練には弱い存在ですから・・

貴方の愛は何事にも変えられないのですから・・
どうか、私があなたどれだけ愛しているかを知ってください。

私たちが歩む道が、それほど簡単でないならば、
あなたの愛は、暗闇に光る星のように,私たちを導きます。

あなたが私を必要とするならば、私はあなたのためにそこにいきます
あなたは、今まで通りで変える必要はありません。
私はあなたを愛しています。貴方の思う通りの道と方法を探しながら
あなたに近づきます。あなたは,私が愛する人です。
最初にそれを気づかせて、愛してくれたのは、あなただから
あなたの望むこと その方法を探してやり遂げたいのです。

それで、私の思いをしって共有してください
あなたが永遠にわかるようにも手伝っても下さる。
すぐに私を抱きしめて、すぐに私に触れてください
私は、あなた愛します。

貴方の愛は何事にも変えられないのですから・・
どうか、私があなたどれだけ愛しているかを知ってください。
あなたなしで生きたくありません。

 あなたへの愛が世界を変えることが出来るようになるのです。
あなたの愛は何事にも変えられないのですから・・
私があなたを愛したのでは無いけれど。

あなたの愛が,心を鷲のように、私を舞い上がらせます。

私がどんなにあなたを愛しているか、解ってください。
私の生涯、変化することの無い愛を,あなたから受けたいのです。
何故なら愛されて、気づくことが多いからです
あなたから愛され、愛されたほど
  あなたへの思いは燃え上がります。
見える形で,時には欲しいのです。あなたに愛されていることを

私の愛は何者にも代えがたいことを知ってください。
試練を与えて、あなたの愛を確かめないでください。
貴方の愛の支えと恵みに満たされたいです。
生きている限り、貴方を愛します。