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2014年2月28日金曜日

@ わが力。私は、あなたを慕います。詩編 18より

詩編 18:1~4
彼はこう言った。主は、わが力。私は、あなたを慕います。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。
死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

 この詩編は、ダビデがサウル王に勝利したときに読んだ神への賛歌です。

サウルはダビデを妬み命を狙う存在でした。しかし、いかなる場合でも、ダビデは主を慕い求めていました。 これは彼の人生を通しての姿勢です。この勝利を得るまでの期間どれ程の月日が流れたのでしょう。この長い年月の間は、神に対して、恨み言は一切はいていません。


ダビデは多くの兄弟の中で末っ子でした。彼の存在と価値は、彼の父親もあまり認めないほどでした。羊を飼いながら、主との深い交わりをしていた少年でした。予言者が油注ぐときにも、父親は彼の存在を忘れていました。でも神は少年ダビデを見いだしていたのです。

あなたは親からの虐待を受けたことがありますか。無視されたことがありますか?
親からでなく、友人から 酷い誤解や酷い言葉を受けた事がありますか。時には上司、牧師からだったりしていませんか。確かに、上記の状況下では、本当に心が傷ついて悲しいですね。 あなたの心の正しさを、誰にぶつけてきたのでしょう。彼は無視したサウル王に対しても忠実でした。自分の手で、サウル王を殺すチャンスはありましたが。殺さずに身の潔白を主張しました。その彼の姿勢は、神を慕う姿勢と信頼から生まれたのです。

ダビデは、神に向かって、『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方。』と告白賛美しています。神に、彼の潔白を主張し訴えては来ましたが、敵から身を避けても、打ちのめすことはせずに、神の手に任せてきました。47節にはこのように告白しています。
『この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。』
 神に対して、親は子を守るために戦うかのような信頼を寄せています。

『わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。』 盾は身を守り、やぐらは身の危険を見守る所です。神は、神に信頼する者に対して、神も彼を信頼します。

ローマ9:15にはこのような神のご性格が書かれています。『神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。』敵となったサウルに対しても、潔白は訴えましたが、殺す事や恨み言は一切、神には上申した祈りはなかったのです。 そんな彼ダビデを神は愛されました。
人を愛する人には、神は深い愛を与えてくださり、哀れみを与える人には、神は、その人を大きく哀れむのです。人のために、祈る人には、イエス様が父なる神の御前で、祈ってくださるのです。

 人が祈りを求めて、その答えを頂くには、人が期待する年月と神の計画にはさがあるときもあります。 『神様は、私の祈りを聞いて下さらない。』とあなたが告白するなら、神は悲しみます。神は親として、子供である私達に選んだもっともよい時期に、答えを下さるからなのです。
詩18:6 『私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。』
 神の目には、あなたの祈りが届いているのです。ここで注視したいことがあります。
神の耳に届いたと告白していますが、ダビデも直ぐに答えたとは書いてないのです。
 でも、でも神の耳に届き、聞いて下さっておられるのです。この間には信頼関係が生まれてくるのです。
詩18:30
『神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾』輝く黄金のように、神の計画、その道筋は完全なのです。純粋にあなたを持っておられるのです。
神から見捨てられたと、どうぞ思わないで下さい。

詩18:32~33
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

神は「あなたの道を備え整える時間が要るのだよ。」と答えておられます。
詩18:35
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

  ダビデは、神様のことを謙遜な方だと告白していることに驚きます。その神の謙遜が、私達を大きく育てるのです。 私達が、問題や自分の祈りを手放すときに、神は動きやすくなり、ご自分の意志で働きやすくなるのです。  神はあなたのために、あなたの祈り、指示ではない戦いをして下さるのです。 その間は、あなたの人生に芽が出るまでの期間も要るでしょう。桃とかクルミの種。身の固い種がありますね。芽が出るまでの間、結構長い年月が要ります。しかし、固い殻が腐敗から種自体を守っているのです。あなたを襲う人生の様々な出来事から、神が、堅固な殻のようになって、あなたを守っておられます。 
 ダビデは哀れみの心を多く抱く人でした。このような物語が聖書には記録されています。
Ⅱサムエル9:11
ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。

サウル王の血を受けぐ孫を保護して、一緒に同じテーブルで食事をしたのです。
 ダビデは、哀れみの心を多く抱いた人でした。自分の敵の血を根絶やしにしないことは、将来。命を狙われる可能性もあった時代です。 そのようなダビデを哀れみ深さを持ったいたので、神は守られたことも心に据えて頂きたいのです。あなたを傷つけた人々に対しても、どうぞ、哀れ者心を持てるように、祈って下さい。神はあなたを哀れまれます。
あなたの盾と成り、あなたを支え守られます。

2014年2月18日火曜日

@ 詩編17より

詩編 17:3

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。

ダビデは賛美と祷りを捧げています。

主は私達の心の内を調べられます。神は私達の忠誠心、聞き従う心を調べられます。
主は彼を調べられ、間違いがなかったことを主張しています。でもダビデの人生には汚点は決した無かったのでしょうか?それらは聖書に書かれています。

  


では何故。主は彼の人生の中での罪、汚点を見いだせなかったのでしょうか?

そうです。彼は悔い改め、手の救いを確信したのです。キリストの十字架の贖いを、彼は既に確信していたのです。彼の行いからではなく、ダビデの時代ににはなかった、キリストの十字架の救いを見てはいませんでしたが、確信していたのです。

ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

4節には『あなたのくちびるの言葉に依った。』と書いてあります。わたし達は人としての考え方、例え。それが善意からの忠告、進言であったとしても、それらの言葉の基準が聖書に依らなくては、真の善意、教えとは言えないのです。

 『神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。詩17:6~9

 私達も日々。神を呼び求めて礼拝し祈り、賛美をします。神は礼拝を通じて賛美の言葉を聞きたいのです。神との関係を深めることが、神ご自身の望みです。ハレルヤ!!神は耳を傾けて聞いて下さるお方です。人の手で造られた偶像の神々とは違い、その耳で聞いて下さるのです。あなたが、神の御名を崇めるときに、御業を見せて下さいます。

この事は『主の祈り。』でも第一に教えておられます。

主の側に身を避ける者を、主の右に立たせてかくまって下さるのです。

あなたが喜んでいるとき。悲しんでいるとき。あなたが傷つけられているとき。
怒っているとき。あなたが、だまされ落し入れられたとき。争っているとき。
あなたが罪を犯しているとき。悔い改めているとき。あなたが落ち込んだとき。
失望しているとき。あなたが苦しみの時。病の時の苦しみの時。あなたの右におられます。

「私は罪を犯しました。あなたの掟は暗闇。罪の仮名では一層清く,輝きます。罪を犯したときには,その心が萎えて衰えます。あっ~ 私は何て事をしたのだろうか・・。貴方との距離が遠くに感いられます。私の犯した罪・過ちのためです。

それでもイエスは、あなたの神です。昼も夜も・・あなたの神です。
あなたを支えておられる神です。あなたの右にいて、救いの手をさしのべています。
少しだけ、罪を犯しているときの渦中の中では、あなたが気がつきにくいだけです。」

『私を、ひとみのように見守り、御翼の影に私を守ってください。私を襲う悪者から。私を取り巻くどん欲な敵から』と書いてあります。詩編17:8~9 

神は片時も離れず、私達を注視しておられる事を信仰によって感謝する事は重要です。 
私達を襲う、どん欲な者とは、神から私達を切り離そうとして多種多様の問題と病をもたらすサタン、悪霊達です。 しかし、そのそそのかしや誘惑に乗ってしまうのは、各自の責任なのです。

色々の問題が来たときに、真っ先に、神を仰がずに神の助けを期待して賛美しないうちに 
心の中が問題や病の苦痛で一杯、不安が先立ちます。それらに心の中が翻弄されてしまいます。 すると神が見えなくなります。 

神に祈っても答えられない。と嘆く方も大勢おられます。 それは、神を見ないで、問題を見て祈るからです。 この時の状況下では、心の中は微妙で複雑ですよ。確かに・・ 

「私達はよくこの様に祈ります。これこれを与えて下さい。これこれを、この様に解決して下さい。」と祈りますが、視点を変えて下さい。

それらは既に、十字架を通して与えられ、御霊によって私達に個人個人に既に与えられているのです。私達に与えられているものを、今更もとめても答えはないと言っても過言ではないです。既に与えられていることは感謝をすればよいのです。

エ!ちょっと待ってと言われる方もおられますね。じゃ何故問題が解決しないのですか?と思われるでしょう。 

17:15節 正しい訴え方をして、御顔を仰ぎみましょう。 

では正しい訴えとは何でしょう。十字架を通して約束された全てを信じて、その通りになるように訴えることです。私達は、問題や病は十字架で解決されているのです。それらを目の前に置いて、自己実現の助けを御霊の助けを祈る事が大切です。 

「問題や病を癒やしてください。」とそれらの問題を山積みの問題として 祈るのではないのです。 マタイ10:8には既に与えられて者として実行するように命じておられます。『 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』


解決された問題として賛美しつつ、十字架の現実を私の人生に実現を下さいと タイムリミットを設けずに祈り求める事で、親子関係=神との関係が構築されることは、神の望みです。

 色々の問題に関しては信仰を働かせて下さい。ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』とも書いてあります。 

これは、パンを作る材料が与えられているのと同じです。麦をひき、小麦粉に変え
パン種を入れて発酵させて焼いてから、私達はパンを口に出来ます。この原動力は信仰です。料理やパン作りを始めるときには、既に心の中でどのようなパンなのか、料理なのかを描き作ってから始めるのです。その結果。あなたは現実に食べられるのと同じです。心に描いたことは霊の世界では実現しているのです。

十字架を通して与えられた麦を、私達の信仰で粉に変えて、キリストの言葉のパン種を混ぜ合わせて、私達の人生で練り合わせ、聖霊の日の釜で焼き上げるのです。信仰と確信が全ての原動力なのです。

また確信しないとは、簡単に言うなら、「十字架で全ての罪が許された、私はあなたの罪を解決した。十字架の血潮で癒やされた。」とイエスが宣言したのにもかかわらず、 
その人が死ぬまで、「私の罪を許してください。問題を・・癒してくださいと」といつも、いつも祈り続け、罪や問題。病の恐怖から逃れないことに似ています。 

現実を見れば、確かに目の前には色々の問題。苦痛があります。けれど賛美を通して、完成された感謝を捧げることが、もっと大切だと思います。 一見。遠回りのようですが、賛美は解決を手にする真実な近道を見いだす解決策です。それが賛美確信です。 
あなたの十字架の全ての癒しの現実を仰いで、神を賛美してください。 

 15節には目覚めるとも書いてあります。主を信じた者は、主の前に目覚めます。それは永遠の国での目覚めです。ハレルヤ!!その目覚めの反対語は、眠るです。

キリストを拒否して亡くなった者は永遠の眠りです。元々。永遠の滅び。地獄は、サタンのために用意された所です。アダムにその約束、救いを契約したのは神ご自身です。

神はこのような永遠の眠り、滅びる人を一人でも亡くしたいと望んでおられます。隣人に福音を語りまししょう。

 あなたの上に、家族友人の上にも祝福が豊かに在りますように。