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2014年3月28日金曜日

@聖書の詩編22章より

詩編 22編  前編。

「我が神、我が神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠くて離れて私をお救いにならないのですか。」 1~2節

 なんと22編の冒頭から、ダビデの嘆きから始まっています。
彼は率直に嘆きの言葉を神に訴えています。それは絶えず神と差し向かえになっているからの言葉です。

              


たしかに、色々の苦難、悲しみがあります。人と人の小競り合いや争いに巻き込まれることも辛いです。
けれど、もっとも辛いこと悲しいことは、神からの回答がもらえないことです。ダビデもこの問題に直面したのです。

私たちも、同様に神様に向かって叫びますが、ダビデに比べて神の応答が少ないと不平を漏らす方もいます。
神の見方と人の思考の違いが時々あります。人は自分自身に関する問題を中心に考えて祈ります。あなたは目先の問題ばかり追われて、その回答を急いでほしいと願っていませんか?

それとも信仰が無いからとあきらめてしまいませんか?
願って祈っても、御利益が無いからと、キリストから離れ、他の神々に行こうと、あなたの心の中をよぎってはいませんか?

新約聖書 ヤコブ 4:8 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」 

 ダビデの姿を見るならば、この苦難なのかでも、彼は神への崇光と信頼を表明しています。2~3節  我が神、昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエル<私たち神の国の住人>の賛美を住まいとしておられます。」

苦難に出会うときに、私たちは不平、不満を口にします。けれどもダビデは言いました。

神の住まいは、神の賛美の中に住んでおられると・・どうぞ振り返って、神によって与えられた恵みや平安。祝福を思い起こしては、神を賛美して下さい。

そんなことは無い今まで、そんな良い思いをしたことがなと言わないで下さいね。

主なる神を否定するなら、ますますあなたにのりの答えは、遅くなります。

ダビデは素直に祈り、その答え神の応答が送れていること嘆きながらも、神様の懐に入って言っています。

ダビデの告白は、「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房により、貴方に頼まさせた方。生まれる前から、
わたしはあなたにゆだねられました。母の体内にいたときから、
あなたは私の神です。どうか、遠くに離れないで下さい。苦しみが近づいており、助ける物がいないからです。」 

答えの無い苦しみを告白しながら、より深く神に近づいて、神の存在と、自分との関わりの深さをを認めているのです。

神を恐れ敬いつつ、神に近づいているのです。神が直ぐに答えないのも、神の大きな計画と私たちがその経験を通して成長を願っておられるからです。

ダビデが経験した事を振り返るなら。その信仰の成長を見ることが出来ます。その神への賛美を見れば、彼の賛美の中に、キリストが住んで下さっていたことを見ることが出来ます。

このダビデの告白体験は、キリストご自身が十字架にかかる前にも経験した祈りの予票でもあります。、キリストは、ゲセマネの園で、同様な祈りをなさいました。

それは私たちを救いに導く苦痛の祈りでした。

2014年3月19日水曜日

@ 詩編21より 喜びは・・


21:1~4 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。 セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。
     

21編は、とりなしの賛美です。

祭司や会衆が、王であるダビデに、生ける神が,ダビデに働いておられる事の喜びと感謝賛美を捧げています。

神がおられ、ダビデを支えておられる事。王を支えるので、国民である会衆からの感謝の声が、
キリストへの賛美なっています。

私達は、キリストの十字架の贖いによって、神の国の民となっています。
私達はキリストに栄光が増し加わるように祈り、かつ、その栄光が実存していることを
感謝しなくてはいけません。

キリストの冠は栄光の純金です。私達は永遠の命を求めました。そして、与えられています。王であるキリストに願う願いは、決して退けられません。

 時々 祈ったけれど答えがないからと失望なさる方もおられます。

答えがないのではなく、既に王であるキリストによって与えられているからです。

では何故でしょう?探し方が悪いと見つからないのに似ています。
沢山の祈りの答えが既に、私達の周りに来ています。 探し方ら悪と見つからないのです。

リアリティーを捜しましょう。それは信仰によって得られる、捜せるのです。助けてある聖霊様と
ご一緒に捜しましょう。  リアリティーを待つ間に大切な事があります。 
あなたの信仰の成長です。また賜物として活用できる段階的な成長です。

 ダビデに油注がれてから、サウルのところに連れてこられました。しかし、ダビデは直ぐに王になったのではないです。試練苦難、死の谷を歩みました。
でも、既に神からの油は注がれていました。
またダビデも色々の経験を通して、神への信頼を育ててゆきました。

 神はアダムを創られました。  

アダムは、私達の創造主の期待から外れたことをしました。けれど、神はそのアダムに救いの道を備えて下さいました。 アブラハム、ダビデ、キリストを通してその計画は実行されました。
私達も母の胎の中で創られました。救いの約束されて、私達は生まれました。
しかし、私達一人一人が,その救いの約束に対しての告白して信仰を その救いを受け入れなくては確定されないのです。

主キリストを、私達が信じる事は、キリストの栄光となります。
だが、主の栄光を奪おうとして、霊的な戦いはあります。その矛先は、信じた私達に向けられています。
敵とはサタンです。9節には、敵を徹底的に、飲み尽くすと書いてあります。 

気を緩めることなく、神に賛美と信頼を重ねましょう。私達の捜し物、現実性を奪い隠すからです。
敵の一番の方法は、私達に失望感を与えてダメージを加えるのです。
信仰の人。ヨブも試されました。 妻からの神を呪って見たらと唆されて・・

 私達も試されないことを祈るべきです。と言って 試されることをおそれてはいけません。

詩編21:6~7
あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。

 私達は、王なるキリストに支えられて、信頼を学び知り、答えを探し出して、喜びが実現するのです。

詩編21:13
主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。

  私達の祈り願い、捜し物は、主の栄光が崇められるためにあるのです。

捜し物、祈りの答えが優先であってはいけないのです。 答えが願いが優先であるならば、答えが無いその間。失望感がつのるでしょう。 それでも主をい求める者には、 神が良いとされた時に、神の手からの喜びを得るのです。

 詩編21:6
『 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼(王につながる私達)を楽しませてくださいます。』

2014年3月16日日曜日

@ 父よ。私の神よ。

父よ。私の神よ。


私が生まれた日から、
あなたは私のことを全て知っておられる。

私が幸せで微笑んだことも 人生につまづいて
悩んだ日々をも 嘆き苦しんだ日々。
その涙も知っておられる


私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。

もっと 近くに居たのです。あなたの愛の風を 御霊の翼の風を
受けたいのです。

私が弱いときに、信じる事にもつまずいたり 落ち込んだときに
その翼の風を 私の近くに送り届けて下さい。

その風によって あなたの愛を感じ 救いを受け取れます。

わたしの虚ろな感情によらず,あなたの言葉で 私に近づいて
確信を与えて下さい。 私はここにいますから・・。

私のあなたに,私の父なる神に近づきたいのです。

人生はそう簡単では無く,疲れ苦しい時もあります。
辛い事や悲しいことが続くと、父が私を見捨てたかのように
思ってしまうこともありますよ。

けれど父よ。私の神よ。

あなたの言葉と栄光が,私を生き返られて下さいましたね。
あなたは私たちを決して見捨てない方です。
流した涙のしょっぱさを知って下さいますから・・。

わたしが行くのも 留まるのも 座るのも 全て知って下さいます。
聖なる交わりを慕い求めます。

私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。

私を悪から 絶望から 救い出して下さい。

私があなたに信頼して 信じる力を与えて下さい。
希望を与えて 生きる力からを与えて下さい。

おまえの信じる父親は・・
  おまえの神は力が無いと言わせないでください。

彼らも あなたの栄光を見て信じ
 そして救われるようにして下さい。

父なる神よ。 御心はかならず時を 年月を隔てても
実行なさる父なる神です。


祈りが聞き届けられたことを信じています。
けれど未だ実現に至っていない祈り 願いがありますから
どうか 思いを変えて 御心を変えて下さいませんか?
第一には 神の栄光が現れるようにして下さい。

けれども願わくは私の一生のうちに 
数多くのことを実現させて下さい。

ダビデ、ソロモンに与えた イスラエルの栄光の時と同じように
日本を輝かせてください。 日本人にキリストによる救いを与えて下さい。 私たちの身の上にも あなたの栄光を与え
輝かせて下さい。

父よ。私たちの神よ。
天使が吹き鳴らす 栄光の角笛を聞かせて下さい。
御国のために,私たちを使って下さい。

ただ 私が何も出来なくても 無償の愛を与えてくださった事を深く感謝します。 失敗や過ちを 罪をも許して下さった。

荒野で青銅の蛇を見上げたときに・・ 

 犯した罪を認めたときに
  キリストの十字架の購いを信じたときから

私たちを神の子として下さった愛を感謝します。
私たちは 父へ 私たちの神を讃美します。


あなたに愛されていること もっと知りたいのです。


私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。




















                      

2014年3月15日土曜日

@ 聖書 詩編 20章より

詩編20:6~9

今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。

 この詩編は多くのとりなしの言葉。祈りで始まっています。

詩編20:2

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように

神はその住まいとされた聖所に住まい、民のためにお答え下さいと、祭司であり王であるダビデがとりなしの祈りをしています。

私達は、主の答えが確実であることを再確認しましょう。また隣人の願いを知り、答えが与えられるように乗りましょう。

 祈りはその方策ではありません。現代には、沢山のHOW TOが在ります。よりよい結果を得るためのガイド本です。  信仰はガイド本ではないです。 時々。聖書の黄金律を取り上げて,成功の秘訣を語る方もおられることも事実ですけれど・・

ただ、神に信頼に、信頼を重ね手、礼拝し賛美し崇めることです。
祈りは十字架から、既に来ています。与えられています。

 「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」

この世の考え方からですと、聖書、神の考え方は、逆の発想になります。問題の解決をさておいて、祷りと賛美を捧げる。と聖書は教えるからです。

それは、油注がれた者を救われるからです。 王であるダビデを指し、また王の王であるキリストを指してもいます。しかし、それでけではないのです。

私達、主を信じる者は、全て主によって、油注がれた者です。ハレルヤ。

Ⅱコリント1:21 『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。』と聖書は語っています。

 同じく、Ⅰヨハ2:20 『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

Ⅰヨハ  2:27 にも、私達に注がれた油のことが書いてあります。
『あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。』

 そのそがれた油には、あなたに力不足はないのです。 実感がないと思う方もいますか?それは信仰によって、既に受け取っているのです。 あなたの感情ではないのです。
十字架で流された血潮によって与えられているのです。

各自の信仰によって、聖霊の油を沸騰させましょう。沸騰させる燃料は、あなたの情熱の火、信仰の火によって燃やしましょう。

  願い続けるなら 『主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。6節』  
決して不足することなく、あふれ答えられるのです。

2014年3月13日木曜日

失明を乗り越えて

)

祈れば,直ぐに答えがあると思いがち・・その時が直ぐに来ないと,期待が失望に変わりやすいです。
それは私たち中心に考えようとすると失望が来ませんか?                                     
神中心に考えるならば,期待 希望と信仰が育まれますね。癒やしと救い。神の実行には時があると最近。感じて解り始めました。

何年かかっても,癒やしを 救いを期待する心が重要です。ちなみに母がはじめてキリストの福音を聞いてから信じるまで80年掛かりました。母に福音を伝えた方は既に亡くなっておられました。 
母が洗礼を受けた日に,始めてそのことを聞きましたから驚きました。 
その時に神の手が動きます。神は癒やし主で在り、救い主で在ることには変わりまりません。

病気や災害。事故は当然私たちを襲います。原因は様々・・私たちは土の器。健康管理をしていても病にかかりやすい。 神様何故ですかと原因を探りよりは,前向き,新なる神の計画。救い 癒やしに期待して信仰を保っていた方が良いのでは無いでしょうか?


乙女マリヤの告白。
ルカ1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
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「神には出来ない事は在りません。御心通りになりますように。」
御心に従う気持ちと,謙虚さ。神さまの御言葉の実行には、時が 時間、年月も必要なとき 待ち続ける必要があることを最近 覚えるようになりました。  
                     

神の計画は未知なる不思議に満ちています。

予言者イザヤに、神は語りました 計画を伝えられました。乙女が 身ごもり私たちの救い主に成ると。。
それを伝えられてから・・何年も過ぎて・・ 神は実行なさいました。
神はその計画をご自身の手でおこなってくださいます。

ただ 願わくは、私たちの一代上で実行されるようにと願うことが多いです。 その一つが,私たちのみに起きた病に対しての癒やしと救いです。 前記の失明して方の身にも起きるようにと願って祈っております。           

2014年3月5日水曜日

@ 詩編19よ

詩編19:1~2

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す

 ダビデは、無言の内に語り伝えられる、神の天地創造の業に驚き賛美しています。
 私もアフリカの大地、サハラ砂漠横断をしたり。大河ユーフラテス河の畔に立ったり、
メソポタミア砂漠、アブラハムの見上げた位置から、星空を見上げたこともあります。
また、日本のアルプス、スイスの山々の頂に立ったりしながら、神の業の素晴らしさに、思いを馳せた事があります。

 大自然の中で、見いだせる神の素晴らしに驚嘆します。人の小ささも思い、神を礼拝に導かせます。そんな思いを抱くのは私一人ではないです。それは礼拝する対象者が、天地を創られた神だからこそです。 単に自然を礼拝する信仰もあります。しかし、山や動物が礼拝の対象ではないのです。

詩19:7~9
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

聖霊によって導かれ、書かれた聖書は言葉は完全です。 聖書を自分の利益を求めて読んでも意味がない。そこにはキリストの証しが書かれている。

書かれた言葉が、生きた言葉となり。キリストから語り掛けられたように思える。涙を流し、ある時には、聖書から新しい夢に出合いニンマリ笑う。またあるときには、アッそうだ!!と驚き、御言葉からの励ましに嬉しくなって賛美する。 

知識、知恵が与えられ、かしこくもさせてくださる。罪を示され驚愕する。悔い改めに導く。放蕩した者を父の元に帰らせる。落ち込んだ者には元気と希望を与えてくださる。
神言葉、聖書は完全です。

詩19:11-12

また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

人は罪の意識がありません。この世の罪を思うからです。神の国の法律は、聖書から理解できます。十戒などが書かれています。今日。色々の考え方が出てきています。律法はユダヤ人だけで、異邦人には守らなくてもよいとさえ言う方もいます。
でも聖書は言います。その報いは大きいと・・    天国に着いて、最後の審判の時に歯ぎしりしても、既に遅いのです。

「知らない隠れた罪を示してください。」と、ダビデは願いました。神、創造主を知らないことも罪です。人は欲に引かれると・・誘惑に落ちいると感覚が麻痺します。それは怖いことです。初めは小さな誘惑、でも結果は大きな罪であり、その人の魂を破壊します。

ネットから各所の情報が、私達の所にもやってきます。 少しだけは・・でも気がつく時には取り返しが付かないこともあります。

ヤコブ1:14-15 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

私達は、隠れた罪、気がつかない罪を許される必要もあります。上司、牧師、友人として何気なく語った言葉は後戻りし、あなたの口には戻りません。その口から出た言葉によって、傷ついて人がいるかも知れません。謙虚さとへりくだりが不足していたかも知れません。 また、いくら傷ついたからと言って、何十年も許さないことも罪となって行きます。

御霊の導きで祈りましょう。

ロマ8:26 『 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』

神は、神の元に返ることを強く望まれた。汚れと罪の垣根を取り除くために、十字架の橋を架けてくださいました。その橋を渡りきりましょう。その道しるべは、聖書の言葉です。

一旦。御言葉の道を歩み始めて、後戻りはしないで下さい。立ち止まることがあっても・・ 
キリストにあなたの重荷を委ねて信じましょう。  自分の十字架を背負いましょう。  

マタイ16:24

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
マタイ11:30 『 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

 神はダビデの告白を喜ばれました。私達も同じ告白に導かれる感謝を捧げます。主よ。

詩19:13-14

『あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。』