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2014年5月9日金曜日

@詩編25 前編

詩編25

この詩編25は、主キリストに対する期待の叫びから始まっています。

 「主よ。私の魂は、あなたを仰いでいます。我が神。私はあなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにして下さい。誠に、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえなく裏切る者は恥を見ます。」


 あなたは神であるキリストに何を願い,期待しておられますか?
神を待ち続ける基本姿勢を整えておられと思います。
信仰は信頼であり期待することです。信頼と期待することには行動も必要ですね。

 アブラハムは幾つかの心配をしながらでも、直系のイサクが与えられるまで 20年以上余り,神に期待し続けました。期待は信仰を強くします。

イサクの誕生は、イエス様のような処女降誕ではありませんから、高齢になってもポジティブさを捨てませんでした。妻サラに対しても愛と絆を深めて、夫婦の営みを保ちましたので子供が与えられました。神がなさる配意は無限ですが、あえて、私たちがアクション・行動で信仰を表す事も望んでおられます。

ダニエル10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

 この答えをダニエルは聞くまでどれくらいの年月をよう要したでしょう。彼ダニエルはあきらめずに祈り続けました。答えが天で用意されているとは知らずに・・  弱気にもなっていましたが、天使は言った。『神に愛されている人よ。恐れるな。安心しなさい』ダニエル10:19と 励ましました。

 あなたの祈りは聞かれています。時には天上の戦い、祈りを妨害しようとする力=サタン悪霊が働き回って、祈りの返事が遅れることもあります。 そこで必要になることは決して諦めない忍耐です。神の真実を待ち続ける事、答えを急いで求めない忍耐です。
 急ぎすぎると、神は私を見捨てていると間違った判断。結果を得てしまいます。主なる父なる神。キリスト以外に救い,答えをもとめても無駄なのです。

未だ、答えられていないのでは無く、既に祈りが聞かれ叶えられていることを自覚しないといけないです。
感謝の祈りを捧げて、現実化したような行動も必要になります。

 天上の戦いのためにダニエルには遅れたのです。 
21日間の遅れ、ズレがありました。私たちの行いや信仰によっても。その答えの大きさによってもサタン、悪霊は妨害をしてきます。私自身が10年以上かかって,私の祈りが答えられた経験とその恵みの大きさを知っています。

この詩編の記者、ダビデも苦境の中にありながら,この詩編の中で賛美と祈りを告白しています。

すぐに、急いで・・すべての答えを,ダビデ自身も神からいただいてはいません。

それでも期待と忍耐。信仰と信頼にあふれています。



25編パート2

 詩編25:4~7 
  
「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えて下さい。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

 神は聖書を通して、神に出会う道を語っています。  
聖書、礼拝,また、教会でのメッセージを聞くことは大道です。

けれど、ダビデは小道、抜け道も教えて下さいと願っています。

それは日々の生活の中で神に出会う大道に対して,あなたしか知らない小道、近道,抜け道は、どのようにすれば分かるのでしょうか?   

 それは神様とあなたが個人的な交わり祈りを深めるあいだに、聖霊がソーッと語りくださりって,神により深く近づく小道、抜け道を教えて下さいます。 

パウロがアジアに行きたいと考え祈ったときに、聖霊は引き留め行き先を変えました。

又 彼の友人達がローマには行かないでと嘆願されていても、また預言されても確信を持ってローマに向かったはのは,神からの小道を知っていたからです。

あなたは特別に神と出会う小道、心深く交わり事が出来る抜け道を持っておられますか?


 25:6 「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。
 私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。」

 神は何故に,私たちを救い、私たちを覚えておられるのでしょうか?

神は。アダムを・・私たちを母親の胎の中で創造して下さいました。罪の性質から救い出して,天におけるエデンの園。永遠の交わりに導きたいが為です。

ダビデも,とこしえからあったと告白しています。神が私たちを覚えて下さる動機は哀れみです。その哀れみの故に、キリストの救いの道を備えて下さいました。

「神に対する背きの罪をおぼえないでください、」とダビデも祈っています。 そうです。神キリストはあなたの背きの罪をすでに覚えていません。

あなたは何時までも、許して下して下さいとい乗り続けるのですか? そのような祈りは、この事と同じでは無いでしょうか?
つまり、キリスト何度。十字架に付ければ気が済むのでしょうか。

むしろ,神の恵みによってあなたを思えておられます。詩編25:7 その慈しみは永遠に変わりません。

 あなた自身に背いた人を哀れんで許した場合。その人からいつも,いつまでも許して下さいと言い続けられるより、あの時に許して貰ってありがとう,ありがとうと感謝の言葉を言われる二つ事では、どちらが良いでしょう?

  あなたの{神自身が語った}語った言葉。『許したよ。忘れたよ。』と語ったを信用される方が嬉しいのでは?


神はあなたの罪、すべてを赦し忘れている。むしろ、その恵み愛によって覚えておられるのです。神の言葉を信じるならば、いつまでも許して下さいと言い続けるよりは、ダビデのように、「恵みによって覚えて下さい。私はあなたを賛美して信頼します。」と告白をする方が良いのです。

続く

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