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2014年5月9日金曜日

@詩編25 前編

詩編25

この詩編25は、主キリストに対する期待の叫びから始まっています。

 「主よ。私の魂は、あなたを仰いでいます。我が神。私はあなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにして下さい。誠に、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえなく裏切る者は恥を見ます。」


 あなたは神であるキリストに何を願い,期待しておられますか?
神を待ち続ける基本姿勢を整えておられと思います。
信仰は信頼であり期待することです。信頼と期待することには行動も必要ですね。

 アブラハムは幾つかの心配をしながらでも、直系のイサクが与えられるまで 20年以上余り,神に期待し続けました。期待は信仰を強くします。

イサクの誕生は、イエス様のような処女降誕ではありませんから、高齢になってもポジティブさを捨てませんでした。妻サラに対しても愛と絆を深めて、夫婦の営みを保ちましたので子供が与えられました。神がなさる配意は無限ですが、あえて、私たちがアクション・行動で信仰を表す事も望んでおられます。

ダニエル10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

 この答えをダニエルは聞くまでどれくらいの年月をよう要したでしょう。彼ダニエルはあきらめずに祈り続けました。答えが天で用意されているとは知らずに・・  弱気にもなっていましたが、天使は言った。『神に愛されている人よ。恐れるな。安心しなさい』ダニエル10:19と 励ましました。

 あなたの祈りは聞かれています。時には天上の戦い、祈りを妨害しようとする力=サタン悪霊が働き回って、祈りの返事が遅れることもあります。 そこで必要になることは決して諦めない忍耐です。神の真実を待ち続ける事、答えを急いで求めない忍耐です。
 急ぎすぎると、神は私を見捨てていると間違った判断。結果を得てしまいます。主なる父なる神。キリスト以外に救い,答えをもとめても無駄なのです。

未だ、答えられていないのでは無く、既に祈りが聞かれ叶えられていることを自覚しないといけないです。
感謝の祈りを捧げて、現実化したような行動も必要になります。

 天上の戦いのためにダニエルには遅れたのです。 
21日間の遅れ、ズレがありました。私たちの行いや信仰によっても。その答えの大きさによってもサタン、悪霊は妨害をしてきます。私自身が10年以上かかって,私の祈りが答えられた経験とその恵みの大きさを知っています。

この詩編の記者、ダビデも苦境の中にありながら,この詩編の中で賛美と祈りを告白しています。

すぐに、急いで・・すべての答えを,ダビデ自身も神からいただいてはいません。

それでも期待と忍耐。信仰と信頼にあふれています。



25編パート2

 詩編25:4~7 
  
「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えて下さい。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

 神は聖書を通して、神に出会う道を語っています。  
聖書、礼拝,また、教会でのメッセージを聞くことは大道です。

けれど、ダビデは小道、抜け道も教えて下さいと願っています。

それは日々の生活の中で神に出会う大道に対して,あなたしか知らない小道、近道,抜け道は、どのようにすれば分かるのでしょうか?   

 それは神様とあなたが個人的な交わり祈りを深めるあいだに、聖霊がソーッと語りくださりって,神により深く近づく小道、抜け道を教えて下さいます。 

パウロがアジアに行きたいと考え祈ったときに、聖霊は引き留め行き先を変えました。

又 彼の友人達がローマには行かないでと嘆願されていても、また預言されても確信を持ってローマに向かったはのは,神からの小道を知っていたからです。

あなたは特別に神と出会う小道、心深く交わり事が出来る抜け道を持っておられますか?


 25:6 「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。
 私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。」

 神は何故に,私たちを救い、私たちを覚えておられるのでしょうか?

神は。アダムを・・私たちを母親の胎の中で創造して下さいました。罪の性質から救い出して,天におけるエデンの園。永遠の交わりに導きたいが為です。

ダビデも,とこしえからあったと告白しています。神が私たちを覚えて下さる動機は哀れみです。その哀れみの故に、キリストの救いの道を備えて下さいました。

「神に対する背きの罪をおぼえないでください、」とダビデも祈っています。 そうです。神キリストはあなたの背きの罪をすでに覚えていません。

あなたは何時までも、許して下して下さいとい乗り続けるのですか? そのような祈りは、この事と同じでは無いでしょうか?
つまり、キリスト何度。十字架に付ければ気が済むのでしょうか。

むしろ,神の恵みによってあなたを思えておられます。詩編25:7 その慈しみは永遠に変わりません。

 あなた自身に背いた人を哀れんで許した場合。その人からいつも,いつまでも許して下さいと言い続けられるより、あの時に許して貰ってありがとう,ありがとうと感謝の言葉を言われる二つ事では、どちらが良いでしょう?

  あなたの{神自身が語った}語った言葉。『許したよ。忘れたよ。』と語ったを信用される方が嬉しいのでは?


神はあなたの罪、すべてを赦し忘れている。むしろ、その恵み愛によって覚えておられるのです。神の言葉を信じるならば、いつまでも許して下さいと言い続けるよりは、ダビデのように、「恵みによって覚えて下さい。私はあなたを賛美して信頼します。」と告白をする方が良いのです。

続く

@ 神よ、あなたに差し上げられるものは・・


私の一つを差し上げます。私の真心を差し上げます。
二つの両手をあなたに差し出します。

I'll give you one of mine. I'll give you my sincerity. 
I held out both hands to you two.

おお、私の神よ。あなたは私の救い、力です。
Oh, my God. My salvation, you are the power. 




あなたの素晴らしさは、私の小さな口では伝えきれません。
私の人生は、あなたに出会って変えられました。

The splendor of you, I can not tell in my small mouth. 
My life was changed I met you. 

栄光に満ちる人生は、あなたからの贈り物だからです。
私は変わったからです。あなたの素晴らしい愛とキリストの救いによってです。

光、輝く翼の影に、私が留まっていることが出来る。
グローリー! 栄光から栄光へと変えられる。私がいます。
聖霊の力と助けが在ります。



わたしたちが父なる神に出来る事。 私達は心からの礼拝と讃美を歌い、踊り。それらをあなたに献げることが出来るから感謝します。

それら 私たちがした讃美以上に、あなたの栄光を私たちに見せて下さいます。

天地に栄光があります。私たちに癒やしが有ります。

私の一つを差し上げます。私の真心を差し上げます。
二つの両手をあなたに差し出します。

あなたの福音のために、あなたの計画のために、どうぞ用いて下さい。
又、なにも出来なくても 貴方の側に座らせて下さい。

神の子羊に栄光がありますように。ハレルヤ ハレルヤ!



私が悩み苦しい時に、あなたが側に来て下さいました。

あなたが先に、あなたの心を差し出して見せて下さり、
話しかけ下さいました。

砂漠(イラク)の中に立つ火の柱から、あなたの栄光が、昔から今も在る事を見せてくださいました。



私の人生はあなたの物です。 あなたに差し上げたのですから、自由にお使いください。


私の一つを差し上げます。私の真心を差し上げます。
二つの両手をあなたに差し出します。

2014年4月23日水曜日

@ 聖書 詩編 24より


この詩編は,大きく2つの文節があります。

主の主権を認め賛美する節です。次に主の栄光が私の中に降りてくる喜びの節です。

1節には、『地とそれに、満ちているもの、世界とその中に住み者は主の者である。」と宣言しています。


この世界は主によって築きあげられたと告白し認めています。
世界のもの,すべては主によって創造されてと告白して,私たちは種に属している者だと語っています。特に主を礼拝者、救われた者は主によって新しく作られた者です。
  
ヨハネ 3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

Ⅰペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

Ⅰペテロ  1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 主から生まれた者は、主が養います。前記の23編のように羊飼いとして私たちを養うのです。  養われるためには、全権をその養う方・・神様に委ねなくてはいけません。


 「門よ。おまえたちの頭をあげよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の主が入って来られる。」7節から大きな流れの節が動きます。

        


神はただ御座に臨在をしておられるだけでは無く、私たちを静観しているのでも無く,
私たちの心と魂の中に下って,、その処。私たちの霊の中を住まいをして下さるのです。

私たちも住まいとなさって下さいと、心と魂を父なる神・キリスト・聖霊様に、心を明け渡して、主によって支配されることを喜びとしなければ意味が無いですね。

 ダビデの賛美ですが、神がシオンを住まいとされる前にはなにがあったのか?

それは敵に契約の箱が盗まれていたのです。神はその敵を支配して困惑させ、戦利品であった契約の箱を,イスラエルに返したのです。ダビデはその契約の箱がシオンの丘に戻ってきたときに、この24編を歌いました。

契約の箱のあるべき処は、主を礼拝するあなたの心の中に留まらなければなりません。

主の契約、救いがあるところには賛美があり、主はその賛美を住
まいとされます。そして恵みとしてあなたを救い養います。

あなたの問題の前でも酒宴を開く余裕を与えるのです。あなたが、主に支配されることが第一の条件となります。
神の恵みと賛美があなたの上に豊かにありますようにと祈ります。


  24編のを生活の中で生かす。

 門が開けられ、神が入ってくるところは,あなたの心の中です。
『門よ。頭を上げよ。』とダビデは宣言しています。7節  ダビデはいかなる場合でも主に使える心と常に神を喜び 勝利宣言告白する心をを持ち続けました。

契約の箱・・それは現代では聖書にあたります。

主の臨在を絶えず喜んでいました。喜びの賛美があるところでは主が勝利をなさいます。あなたの不安は信仰不安につながりますし、あなたの敗北にもつながります。

不安は主を退けるからですね。

世の中には傷つくことは確かに多いです。あなたがたたかれることもあります。疲れることもあります。しかし、あなたの心に住まわれる主キリストの臨在に気がつくならば、万軍の主、勝利の力の源であるキリストに信頼を重ねていくなら,神はあなたの頃に住んで下さり,あなたに勝利をもたらします。そして、あなたは神からの祝福を受けるのです。

病になっても不安に打ち勝ち、既にキリストの十字架。購いが、あなたの打たれた傷、病も治して下さった!過去の病として感謝し癒やしを受ける心構えも重要です。

癒やしだけでは無く、次々と起きてくる各種の生活の中、仕事。事業のこと・・・問題も解決されてと感謝讃美始めると 後から現実=解決がやって来ます。何故なら、神は全てに勝利者。私たちをその勝利者として導くのです。 不安は捨てましょう。

日々コツコツと日々の生活と讃美を煉瓦を積み上げるかのように・・折に触れて ベストな設計プランの変更さえも語りかけて下さいます。神の声を聞くためには、あなたから神に近づく事が第一条件です。

想像を超えた助け、アイデアなど色々の方法で、神様は私たちの手を引き上げて下さいます。

神の声を聞く方法の第一は、私たちが神に近づく事です。
リンク 神の声を聞く 
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今一度。 詩編24を見直して下さい。

24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。
 24:2 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
 24:3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
 24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
 24:5 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
 24:6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 セラ
 24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
 24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
 24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
 24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。 セラ

2014年4月16日水曜日

@ 詩編 23より

 詩編23

ダビデは以下の素晴らしい歌を神に捧げて讃美しました。
キリストを信じる者あれば・・又 聖書を1度は読んでおられるならば 必ずと言って良いほど読まれる詩編の23番です。





ダビデの賛歌
 23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

   羊はその性格として、一匹では生きていくことが困難です。
少し気ままでもあります。集団で無いと生活が出来ないのですが、時には、その枠から迷い出て、自分の食べたい、牧草を探したい所に勝手気まま ある意味自由?しかしも後戻りが出来ない性質を持ち合わせています。  迷い出る羊の原因でもあります。

羊飼い。その主人の顔もよく知ってもいます。
  偶然。有る道筋で、私は羊の群れの前に、立ち会わせてしまいました。(海外に居たときの話しです。) 羊たちはビクリとも動かなくなりました。
  羊飼いは『 ムッシュー(私のこと)少し道を空けてくれないか?羊が動かなく成るから・・』」と言いながら、羊たちに声を掛けると、一斉に私の横をする抜けて言いきました。

  羊には、羊飼いの存在が不可欠なのですね。
その羊飼いが、羊たちの必要を完全に満たすのです。
時には熊やオオカミ等の猛獣からも、羊たちを護ります。


 23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

神はその栄光のために、ご自身の力を現されます。
ご自身の語られたこと、御言葉を実行なさいます。
喩え私たちが、間違った道、方向に歩み出しても、連れ戻して下さいます。

神がソドムを滅ぼそうとしたときに、彼の甥ロトのためにもアブラハムの願いとりなしを聞かれて、ソドムからロトを救い出されました。しかし、ロトは完全には神の言いつけを聞かないで、途中で止めてしまいましたけれど・・

注意が此処で必要です。完全にしたがったのか?許容範囲だったかで結果が違うことを、覚えて下さい。

予言者、バラムが間違った道を歩もうとした際には、ロバが先に天使達を見つけて引き下がりました。そのロバが口をきいて、予言者バラムをたしなめました。
神の注意は何時も穏やかなのです。なので、私たちは気がつかないことさえもありませんか? 神は私たち一人一人の決断を重要視なさいます。

ダビデは屋上から見た女性を欲しがり、その夫を戦場に送り、計画犯罪を犯しました。
預言者はダビデの罪をたしなめました。彼は大きく悔い改めました。
悔い改めるか?開き直るかはダビデ自身が決断しました。

 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私たちはこの様で生きている限り、苦難や苦しみ、病との戦いです。
人間関係にも疲れが生じます。 私たちはキリストに向かって自分の解決されたいことを願います。
  神は、それらにも答えを下さいます。
神が叶えて、どれだけ、ご自身が崇められるか?栄光につながるか?を推し量られます。
私たちの個人の欲望を満たす願いは聞かれないと思います。悪い欲望を満たすのはサタンの力です。神が聞いたわけでは無いのです。

キリストを信じたのに、何故こんな事で苦しむのかと疑問さえ湧きます。
けれど、神の鞭は正しい道に導くと覚えるならば、どんな事柄も乗り越えられます。神様の御心に立って、祈りの答えは神が出されます。
試練によって成長して、私たちは強くなれます。ダビデの障害を通して見ても、沢山の苦しみ、誤解され、病にも成り 戦いがありましたが、絶対的な信頼を父なる神に捧げ通しました。

 23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

神への信頼の報酬を私たちは受け取ることが出来ます。

 人間関係に疲れて・・教会の中に居て孤独を味有ったことが無いですか? それでも神は貴方の側におられます。

時に正しく正当なことを言うと、仲間はずれに遭うことが、私たち人間社会の中でも良くおこります。クリスチャンになった途端に・・

あなたが御言葉に沿って正しいので、抵抗勢力が妨害するのです。(ある領域では霊的な戦いです。)

クリスチャンとは キリスト馬鹿と言われた名残の語源です。
それだけ熱心に何時もキリストを話して伝えていたからです。


 23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

あなたは決して孤独では無いのです。神が私たちの側におられることを現実的に受け止めましょう。


    



  私たち人間側の自己の利益では、神は答えられないです。

感謝と讃美が無くしては次の答えも無いです。どの様な事があっても神から離れない決心が不可欠です。

あなたの上に羊飼い成るイエス様が側におられることを感謝して、その臨在を覚え続けましょう。


追記。

 季節が変わります。椿も桜も終わりかけの神戸です。
けれど変わらない神の言葉と復活の証 主が生きておられることです。
次の御言葉を頂き、失望から立ち上がれ、私の癌に立ち向かえました。癌が治りました。癒やされました。失意と絶望から立ち上がる希望を頂いた言葉です。

現実を見れば、まだ手術まで祈る事さえ出来ない元気も無いときでしたが、『喩え、死の影を歩みとも・・』 この言葉から癌が治ったと信じて受け入れ、治って緑の牧場=私の社会生活の場を元気に飛び回っている姿を想像し、感謝の讃美を始めました。
治った現実を受け入れたのです。<手術まえでした。>

医師が手術を始めると???確かにレントゲンや癌反応が何度調べてもそれらしい癌は無く消えていました。
医師が首をかしげながら、説明をして下さいました。


希望と信頼が、私たちの信仰の成長させる種です。水を注ぎ育ててくださるのは、私たちの助け主の聖霊様です。

<< 詩編 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。>>  

祈っても直ぐに、応えられないときもあります。その時に答えが無いのでは無く、その時に応えがないだけです。不安に打ち勝つならば、時を見計らって、神は必ず答えられます。応えと答えの違いだけです。1度 聞かれた神は、年月を隔てたとしても、ご自身の栄光のために叶えられます。

個人、個人の祈りにも年月を要して叶えられた事も 聖書には書かれています。キッチリと神は答えておられます。神を待つ間に信仰が強められますように。




私たちの祈りが、御心に沿った祈りであるならば、キリストの十字架を血に染めた神です。 椿の木が、十字架と思えて撮影しました。受難週を覚えて・

合わせてこちらもご覧下さい。
YouTube動画 LOVEJOYwwjdさんのチャンネルより


 http://youtu.be/SX4ly9pwPIQ

2014年4月8日火曜日

@ 全能の神.エルシャダイへの賛歌

全能の神への賛歌                         

エル・シャダイ、エル・シャダイ               
永遠に備えられ方。
                          


時が永遠に続いても変わらぬ、お方、           
あなたの名前の力によって。                   
エル・シャダイ、エル・シャダイ              
全てを据えられる方。    
                    
私達はあなたの名を高く掲げて賛美します。    
エル・シャダイ     アドナイ イルエ                          .

あなたの愛は、身代わりの子羊によって、    
あなたは、アブブラハムの息子イサクを救いました。

あなたの力強い手を通して、                  
海を乾いた地に変えました。 
                 
追放者(ハガル)の迷った足を導かれ、        
あなたは、その女の行く末さえも見つめる神でした、        

そして、あなたの力によって、                
あなたの子、私達を自由の身にしました。   

エル・シャダイ、エル・シャダイ              
永遠に備えられ方。  
                        
年月を重ねても、あなたには変わりなく。 
一日が千年のようであっても・・
  
あなたの力ある名によって。                  
エル・シャダイ、エル・シャダイ  
            

全てを備えられる方                          
私達は高くあなたを称賛して、                
その名を高く掲げ上げます。                  
エル・シャダイ 全能の神よ。
御名を讃えます。

あなたは行く年も変わらずに御言葉通りに、明白にしました。  
それは、キリストの時が近いですから・・。
    
人々が見えることができなかったけれども、    
メシアがそうであるべきであること。    
      
あなたの御言葉の中には多くの計画を含んだけれども、       
彼らは、直ぐに私たちは理解が出来ませんでした。     

あなたの最も素晴らしく、すごい手の技をなされました。

あなたの一人子 キリスト。
人の子として生まれその弱さを通して。                 
 
エル・シャダイ、エル・シャダイ       
エレ エレヨン アナ アドナイ  
      
あなたは永遠から永遠に変わらない方です。 
アルファで在り オメガです。
  
キリストのお名前の力によって。 
                         
エル・シャダイ、エル・シャダイ 、           
Erkamka na アドナイ、               

         
私はあなたの名を高く上げて称賛します。
心からの讃美を献げます。
全てを備えてくださるお方です。  
 エル・シャダイ。    エル・シャダイ 、           
Erkamka na アドナイ      

2014年4月4日金曜日

@ 山桜

 誰にも気に留められずに


ひっそりと            

目立たない存在のあなた。


厳しい条件下に置かれ

夏の日照り 冬の寒さに耐えながら暮らしている。 

あなたの存在などは、誰も気に留めない。

周りには、あなたよりも目立つ生き方をしているものが

あまりにも多いからね。

日常で誰も あなたを顧みたりはしない。

周りは誰も気がつかないで、私たちに感嘆の声も上げてもくれない。

しかし、復活の春には、艶やかな装いに生まれ変わり

あなたの全身の喜びが、周囲を驚かせ 感嘆させ魅了させる。

遠く離れていても、輝いている貴方の姿を発見できるよ。

緑が多い森の中で、あなたが1番目立ち輝いているからね。

何て素晴らしい。

一年分の苦労が報われている瞬間だね。


あなたは一年のとても短い期間だけれど

多くの群衆に感動と癒やし、喜びを与える。

それはなんと 驚くべき素晴らしいことか

またあなたの結実は小さくても、空の鳥を喜ばせ

小鳥たちをしっかり 養うように成る。

その実は、その報酬と成り あなたらしい 君の仲間を

その山の中に残していく

あなたの名前は、山桜。

一年に1度 短い間の出来事

華々しいときが過ぎたら あなたは、また次の時まで控えめ

目立たない生活に戻っていく。着実に 次の計画の為に

緑の森の中 山の中で 沈黙し着実な暮らしをして・・

あなたの名は 山桜。



私たちの人生も、同じだと思う。

生活に追われ疲れたり、人から顧みられ無きときもある。

神の計画にしたがって生きていても

厳しい条件下に置かれるときが在る。

キリスト、父なる神は 、それでも着実に、あなたを顧みて 

人生の中で華を咲かせ、信仰の実がなるように導かれる。




私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
イザヤ53:1~2

 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。

けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。







あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
マタイ 6:26

2014年3月28日金曜日

@聖書の詩編22章より

詩編 22編  前編。

「我が神、我が神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠くて離れて私をお救いにならないのですか。」 1~2節

 なんと22編の冒頭から、ダビデの嘆きから始まっています。
彼は率直に嘆きの言葉を神に訴えています。それは絶えず神と差し向かえになっているからの言葉です。

              


たしかに、色々の苦難、悲しみがあります。人と人の小競り合いや争いに巻き込まれることも辛いです。
けれど、もっとも辛いこと悲しいことは、神からの回答がもらえないことです。ダビデもこの問題に直面したのです。

私たちも、同様に神様に向かって叫びますが、ダビデに比べて神の応答が少ないと不平を漏らす方もいます。
神の見方と人の思考の違いが時々あります。人は自分自身に関する問題を中心に考えて祈ります。あなたは目先の問題ばかり追われて、その回答を急いでほしいと願っていませんか?

それとも信仰が無いからとあきらめてしまいませんか?
願って祈っても、御利益が無いからと、キリストから離れ、他の神々に行こうと、あなたの心の中をよぎってはいませんか?

新約聖書 ヤコブ 4:8 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」 

 ダビデの姿を見るならば、この苦難なのかでも、彼は神への崇光と信頼を表明しています。2~3節  我が神、昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエル<私たち神の国の住人>の賛美を住まいとしておられます。」

苦難に出会うときに、私たちは不平、不満を口にします。けれどもダビデは言いました。

神の住まいは、神の賛美の中に住んでおられると・・どうぞ振り返って、神によって与えられた恵みや平安。祝福を思い起こしては、神を賛美して下さい。

そんなことは無い今まで、そんな良い思いをしたことがなと言わないで下さいね。

主なる神を否定するなら、ますますあなたにのりの答えは、遅くなります。

ダビデは素直に祈り、その答え神の応答が送れていること嘆きながらも、神様の懐に入って言っています。

ダビデの告白は、「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房により、貴方に頼まさせた方。生まれる前から、
わたしはあなたにゆだねられました。母の体内にいたときから、
あなたは私の神です。どうか、遠くに離れないで下さい。苦しみが近づいており、助ける物がいないからです。」 

答えの無い苦しみを告白しながら、より深く神に近づいて、神の存在と、自分との関わりの深さをを認めているのです。

神を恐れ敬いつつ、神に近づいているのです。神が直ぐに答えないのも、神の大きな計画と私たちがその経験を通して成長を願っておられるからです。

ダビデが経験した事を振り返るなら。その信仰の成長を見ることが出来ます。その神への賛美を見れば、彼の賛美の中に、キリストが住んで下さっていたことを見ることが出来ます。

このダビデの告白体験は、キリストご自身が十字架にかかる前にも経験した祈りの予票でもあります。、キリストは、ゲセマネの園で、同様な祈りをなさいました。

それは私たちを救いに導く苦痛の祈りでした。

2014年3月19日水曜日

@ 詩編21より 喜びは・・


21:1~4 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。 セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。
     

21編は、とりなしの賛美です。

祭司や会衆が、王であるダビデに、生ける神が,ダビデに働いておられる事の喜びと感謝賛美を捧げています。

神がおられ、ダビデを支えておられる事。王を支えるので、国民である会衆からの感謝の声が、
キリストへの賛美なっています。

私達は、キリストの十字架の贖いによって、神の国の民となっています。
私達はキリストに栄光が増し加わるように祈り、かつ、その栄光が実存していることを
感謝しなくてはいけません。

キリストの冠は栄光の純金です。私達は永遠の命を求めました。そして、与えられています。王であるキリストに願う願いは、決して退けられません。

 時々 祈ったけれど答えがないからと失望なさる方もおられます。

答えがないのではなく、既に王であるキリストによって与えられているからです。

では何故でしょう?探し方が悪いと見つからないのに似ています。
沢山の祈りの答えが既に、私達の周りに来ています。 探し方ら悪と見つからないのです。

リアリティーを捜しましょう。それは信仰によって得られる、捜せるのです。助けてある聖霊様と
ご一緒に捜しましょう。  リアリティーを待つ間に大切な事があります。 
あなたの信仰の成長です。また賜物として活用できる段階的な成長です。

 ダビデに油注がれてから、サウルのところに連れてこられました。しかし、ダビデは直ぐに王になったのではないです。試練苦難、死の谷を歩みました。
でも、既に神からの油は注がれていました。
またダビデも色々の経験を通して、神への信頼を育ててゆきました。

 神はアダムを創られました。  

アダムは、私達の創造主の期待から外れたことをしました。けれど、神はそのアダムに救いの道を備えて下さいました。 アブラハム、ダビデ、キリストを通してその計画は実行されました。
私達も母の胎の中で創られました。救いの約束されて、私達は生まれました。
しかし、私達一人一人が,その救いの約束に対しての告白して信仰を その救いを受け入れなくては確定されないのです。

主キリストを、私達が信じる事は、キリストの栄光となります。
だが、主の栄光を奪おうとして、霊的な戦いはあります。その矛先は、信じた私達に向けられています。
敵とはサタンです。9節には、敵を徹底的に、飲み尽くすと書いてあります。 

気を緩めることなく、神に賛美と信頼を重ねましょう。私達の捜し物、現実性を奪い隠すからです。
敵の一番の方法は、私達に失望感を与えてダメージを加えるのです。
信仰の人。ヨブも試されました。 妻からの神を呪って見たらと唆されて・・

 私達も試されないことを祈るべきです。と言って 試されることをおそれてはいけません。

詩編21:6~7
あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。

 私達は、王なるキリストに支えられて、信頼を学び知り、答えを探し出して、喜びが実現するのです。

詩編21:13
主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。

  私達の祈り願い、捜し物は、主の栄光が崇められるためにあるのです。

捜し物、祈りの答えが優先であってはいけないのです。 答えが願いが優先であるならば、答えが無いその間。失望感がつのるでしょう。 それでも主をい求める者には、 神が良いとされた時に、神の手からの喜びを得るのです。

 詩編21:6
『 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼(王につながる私達)を楽しませてくださいます。』

2014年3月16日日曜日

@ 父よ。私の神よ。

父よ。私の神よ。


私が生まれた日から、
あなたは私のことを全て知っておられる。

私が幸せで微笑んだことも 人生につまづいて
悩んだ日々をも 嘆き苦しんだ日々。
その涙も知っておられる


私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。

もっと 近くに居たのです。あなたの愛の風を 御霊の翼の風を
受けたいのです。

私が弱いときに、信じる事にもつまずいたり 落ち込んだときに
その翼の風を 私の近くに送り届けて下さい。

その風によって あなたの愛を感じ 救いを受け取れます。

わたしの虚ろな感情によらず,あなたの言葉で 私に近づいて
確信を与えて下さい。 私はここにいますから・・。

私のあなたに,私の父なる神に近づきたいのです。

人生はそう簡単では無く,疲れ苦しい時もあります。
辛い事や悲しいことが続くと、父が私を見捨てたかのように
思ってしまうこともありますよ。

けれど父よ。私の神よ。

あなたの言葉と栄光が,私を生き返られて下さいましたね。
あなたは私たちを決して見捨てない方です。
流した涙のしょっぱさを知って下さいますから・・。

わたしが行くのも 留まるのも 座るのも 全て知って下さいます。
聖なる交わりを慕い求めます。

私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。

私を悪から 絶望から 救い出して下さい。

私があなたに信頼して 信じる力を与えて下さい。
希望を与えて 生きる力からを与えて下さい。

おまえの信じる父親は・・
  おまえの神は力が無いと言わせないでください。

彼らも あなたの栄光を見て信じ
 そして救われるようにして下さい。

父なる神よ。 御心はかならず時を 年月を隔てても
実行なさる父なる神です。


祈りが聞き届けられたことを信じています。
けれど未だ実現に至っていない祈り 願いがありますから
どうか 思いを変えて 御心を変えて下さいませんか?
第一には 神の栄光が現れるようにして下さい。

けれども願わくは私の一生のうちに 
数多くのことを実現させて下さい。

ダビデ、ソロモンに与えた イスラエルの栄光の時と同じように
日本を輝かせてください。 日本人にキリストによる救いを与えて下さい。 私たちの身の上にも あなたの栄光を与え
輝かせて下さい。

父よ。私たちの神よ。
天使が吹き鳴らす 栄光の角笛を聞かせて下さい。
御国のために,私たちを使って下さい。

ただ 私が何も出来なくても 無償の愛を与えてくださった事を深く感謝します。 失敗や過ちを 罪をも許して下さった。

荒野で青銅の蛇を見上げたときに・・ 

 犯した罪を認めたときに
  キリストの十字架の購いを信じたときから

私たちを神の子として下さった愛を感謝します。
私たちは 父へ 私たちの神を讃美します。


あなたに愛されていること もっと知りたいのです。


私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。




















                      

2014年3月15日土曜日

@ 聖書 詩編 20章より

詩編20:6~9

今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。

 この詩編は多くのとりなしの言葉。祈りで始まっています。

詩編20:2

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように

神はその住まいとされた聖所に住まい、民のためにお答え下さいと、祭司であり王であるダビデがとりなしの祈りをしています。

私達は、主の答えが確実であることを再確認しましょう。また隣人の願いを知り、答えが与えられるように乗りましょう。

 祈りはその方策ではありません。現代には、沢山のHOW TOが在ります。よりよい結果を得るためのガイド本です。  信仰はガイド本ではないです。 時々。聖書の黄金律を取り上げて,成功の秘訣を語る方もおられることも事実ですけれど・・

ただ、神に信頼に、信頼を重ね手、礼拝し賛美し崇めることです。
祈りは十字架から、既に来ています。与えられています。

 「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」

この世の考え方からですと、聖書、神の考え方は、逆の発想になります。問題の解決をさておいて、祷りと賛美を捧げる。と聖書は教えるからです。

それは、油注がれた者を救われるからです。 王であるダビデを指し、また王の王であるキリストを指してもいます。しかし、それでけではないのです。

私達、主を信じる者は、全て主によって、油注がれた者です。ハレルヤ。

Ⅱコリント1:21 『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。』と聖書は語っています。

 同じく、Ⅰヨハ2:20 『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

Ⅰヨハ  2:27 にも、私達に注がれた油のことが書いてあります。
『あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。』

 そのそがれた油には、あなたに力不足はないのです。 実感がないと思う方もいますか?それは信仰によって、既に受け取っているのです。 あなたの感情ではないのです。
十字架で流された血潮によって与えられているのです。

各自の信仰によって、聖霊の油を沸騰させましょう。沸騰させる燃料は、あなたの情熱の火、信仰の火によって燃やしましょう。

  願い続けるなら 『主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。6節』  
決して不足することなく、あふれ答えられるのです。

2014年3月13日木曜日

失明を乗り越えて

)

祈れば,直ぐに答えがあると思いがち・・その時が直ぐに来ないと,期待が失望に変わりやすいです。
それは私たち中心に考えようとすると失望が来ませんか?                                     
神中心に考えるならば,期待 希望と信仰が育まれますね。癒やしと救い。神の実行には時があると最近。感じて解り始めました。

何年かかっても,癒やしを 救いを期待する心が重要です。ちなみに母がはじめてキリストの福音を聞いてから信じるまで80年掛かりました。母に福音を伝えた方は既に亡くなっておられました。 
母が洗礼を受けた日に,始めてそのことを聞きましたから驚きました。 
その時に神の手が動きます。神は癒やし主で在り、救い主で在ることには変わりまりません。

病気や災害。事故は当然私たちを襲います。原因は様々・・私たちは土の器。健康管理をしていても病にかかりやすい。 神様何故ですかと原因を探りよりは,前向き,新なる神の計画。救い 癒やしに期待して信仰を保っていた方が良いのでは無いでしょうか?


乙女マリヤの告白。
ルカ1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
*******
「神には出来ない事は在りません。御心通りになりますように。」
御心に従う気持ちと,謙虚さ。神さまの御言葉の実行には、時が 時間、年月も必要なとき 待ち続ける必要があることを最近 覚えるようになりました。  
                     

神の計画は未知なる不思議に満ちています。

予言者イザヤに、神は語りました 計画を伝えられました。乙女が 身ごもり私たちの救い主に成ると。。
それを伝えられてから・・何年も過ぎて・・ 神は実行なさいました。
神はその計画をご自身の手でおこなってくださいます。

ただ 願わくは、私たちの一代上で実行されるようにと願うことが多いです。 その一つが,私たちのみに起きた病に対しての癒やしと救いです。 前記の失明して方の身にも起きるようにと願って祈っております。           

2014年3月5日水曜日

@ 詩編19よ

詩編19:1~2

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す

 ダビデは、無言の内に語り伝えられる、神の天地創造の業に驚き賛美しています。
 私もアフリカの大地、サハラ砂漠横断をしたり。大河ユーフラテス河の畔に立ったり、
メソポタミア砂漠、アブラハムの見上げた位置から、星空を見上げたこともあります。
また、日本のアルプス、スイスの山々の頂に立ったりしながら、神の業の素晴らしさに、思いを馳せた事があります。

 大自然の中で、見いだせる神の素晴らしに驚嘆します。人の小ささも思い、神を礼拝に導かせます。そんな思いを抱くのは私一人ではないです。それは礼拝する対象者が、天地を創られた神だからこそです。 単に自然を礼拝する信仰もあります。しかし、山や動物が礼拝の対象ではないのです。

詩19:7~9
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

聖霊によって導かれ、書かれた聖書は言葉は完全です。 聖書を自分の利益を求めて読んでも意味がない。そこにはキリストの証しが書かれている。

書かれた言葉が、生きた言葉となり。キリストから語り掛けられたように思える。涙を流し、ある時には、聖書から新しい夢に出合いニンマリ笑う。またあるときには、アッそうだ!!と驚き、御言葉からの励ましに嬉しくなって賛美する。 

知識、知恵が与えられ、かしこくもさせてくださる。罪を示され驚愕する。悔い改めに導く。放蕩した者を父の元に帰らせる。落ち込んだ者には元気と希望を与えてくださる。
神言葉、聖書は完全です。

詩19:11-12

また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

人は罪の意識がありません。この世の罪を思うからです。神の国の法律は、聖書から理解できます。十戒などが書かれています。今日。色々の考え方が出てきています。律法はユダヤ人だけで、異邦人には守らなくてもよいとさえ言う方もいます。
でも聖書は言います。その報いは大きいと・・    天国に着いて、最後の審判の時に歯ぎしりしても、既に遅いのです。

「知らない隠れた罪を示してください。」と、ダビデは願いました。神、創造主を知らないことも罪です。人は欲に引かれると・・誘惑に落ちいると感覚が麻痺します。それは怖いことです。初めは小さな誘惑、でも結果は大きな罪であり、その人の魂を破壊します。

ネットから各所の情報が、私達の所にもやってきます。 少しだけは・・でも気がつく時には取り返しが付かないこともあります。

ヤコブ1:14-15 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

私達は、隠れた罪、気がつかない罪を許される必要もあります。上司、牧師、友人として何気なく語った言葉は後戻りし、あなたの口には戻りません。その口から出た言葉によって、傷ついて人がいるかも知れません。謙虚さとへりくだりが不足していたかも知れません。 また、いくら傷ついたからと言って、何十年も許さないことも罪となって行きます。

御霊の導きで祈りましょう。

ロマ8:26 『 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』

神は、神の元に返ることを強く望まれた。汚れと罪の垣根を取り除くために、十字架の橋を架けてくださいました。その橋を渡りきりましょう。その道しるべは、聖書の言葉です。

一旦。御言葉の道を歩み始めて、後戻りはしないで下さい。立ち止まることがあっても・・ 
キリストにあなたの重荷を委ねて信じましょう。  自分の十字架を背負いましょう。  

マタイ16:24

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
マタイ11:30 『 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

 神はダビデの告白を喜ばれました。私達も同じ告白に導かれる感謝を捧げます。主よ。

詩19:13-14

『あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。』

2014年2月28日金曜日

@ わが力。私は、あなたを慕います。詩編 18より

詩編 18:1~4
彼はこう言った。主は、わが力。私は、あなたを慕います。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。
死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

 この詩編は、ダビデがサウル王に勝利したときに読んだ神への賛歌です。

サウルはダビデを妬み命を狙う存在でした。しかし、いかなる場合でも、ダビデは主を慕い求めていました。 これは彼の人生を通しての姿勢です。この勝利を得るまでの期間どれ程の月日が流れたのでしょう。この長い年月の間は、神に対して、恨み言は一切はいていません。


ダビデは多くの兄弟の中で末っ子でした。彼の存在と価値は、彼の父親もあまり認めないほどでした。羊を飼いながら、主との深い交わりをしていた少年でした。予言者が油注ぐときにも、父親は彼の存在を忘れていました。でも神は少年ダビデを見いだしていたのです。

あなたは親からの虐待を受けたことがありますか。無視されたことがありますか?
親からでなく、友人から 酷い誤解や酷い言葉を受けた事がありますか。時には上司、牧師からだったりしていませんか。確かに、上記の状況下では、本当に心が傷ついて悲しいですね。 あなたの心の正しさを、誰にぶつけてきたのでしょう。彼は無視したサウル王に対しても忠実でした。自分の手で、サウル王を殺すチャンスはありましたが。殺さずに身の潔白を主張しました。その彼の姿勢は、神を慕う姿勢と信頼から生まれたのです。

ダビデは、神に向かって、『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方。』と告白賛美しています。神に、彼の潔白を主張し訴えては来ましたが、敵から身を避けても、打ちのめすことはせずに、神の手に任せてきました。47節にはこのように告白しています。
『この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。』
 神に対して、親は子を守るために戦うかのような信頼を寄せています。

『わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。』 盾は身を守り、やぐらは身の危険を見守る所です。神は、神に信頼する者に対して、神も彼を信頼します。

ローマ9:15にはこのような神のご性格が書かれています。『神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。』敵となったサウルに対しても、潔白は訴えましたが、殺す事や恨み言は一切、神には上申した祈りはなかったのです。 そんな彼ダビデを神は愛されました。
人を愛する人には、神は深い愛を与えてくださり、哀れみを与える人には、神は、その人を大きく哀れむのです。人のために、祈る人には、イエス様が父なる神の御前で、祈ってくださるのです。

 人が祈りを求めて、その答えを頂くには、人が期待する年月と神の計画にはさがあるときもあります。 『神様は、私の祈りを聞いて下さらない。』とあなたが告白するなら、神は悲しみます。神は親として、子供である私達に選んだもっともよい時期に、答えを下さるからなのです。
詩18:6 『私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。』
 神の目には、あなたの祈りが届いているのです。ここで注視したいことがあります。
神の耳に届いたと告白していますが、ダビデも直ぐに答えたとは書いてないのです。
 でも、でも神の耳に届き、聞いて下さっておられるのです。この間には信頼関係が生まれてくるのです。
詩18:30
『神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾』輝く黄金のように、神の計画、その道筋は完全なのです。純粋にあなたを持っておられるのです。
神から見捨てられたと、どうぞ思わないで下さい。

詩18:32~33
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

神は「あなたの道を備え整える時間が要るのだよ。」と答えておられます。
詩18:35
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

  ダビデは、神様のことを謙遜な方だと告白していることに驚きます。その神の謙遜が、私達を大きく育てるのです。 私達が、問題や自分の祈りを手放すときに、神は動きやすくなり、ご自分の意志で働きやすくなるのです。  神はあなたのために、あなたの祈り、指示ではない戦いをして下さるのです。 その間は、あなたの人生に芽が出るまでの期間も要るでしょう。桃とかクルミの種。身の固い種がありますね。芽が出るまでの間、結構長い年月が要ります。しかし、固い殻が腐敗から種自体を守っているのです。あなたを襲う人生の様々な出来事から、神が、堅固な殻のようになって、あなたを守っておられます。 
 ダビデは哀れみの心を多く抱く人でした。このような物語が聖書には記録されています。
Ⅱサムエル9:11
ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。

サウル王の血を受けぐ孫を保護して、一緒に同じテーブルで食事をしたのです。
 ダビデは、哀れみの心を多く抱いた人でした。自分の敵の血を根絶やしにしないことは、将来。命を狙われる可能性もあった時代です。 そのようなダビデを哀れみ深さを持ったいたので、神は守られたことも心に据えて頂きたいのです。あなたを傷つけた人々に対しても、どうぞ、哀れ者心を持てるように、祈って下さい。神はあなたを哀れまれます。
あなたの盾と成り、あなたを支え守られます。

2014年2月18日火曜日

@ 詩編17より

詩編 17:3

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。

ダビデは賛美と祷りを捧げています。

主は私達の心の内を調べられます。神は私達の忠誠心、聞き従う心を調べられます。
主は彼を調べられ、間違いがなかったことを主張しています。でもダビデの人生には汚点は決した無かったのでしょうか?それらは聖書に書かれています。

  


では何故。主は彼の人生の中での罪、汚点を見いだせなかったのでしょうか?

そうです。彼は悔い改め、手の救いを確信したのです。キリストの十字架の贖いを、彼は既に確信していたのです。彼の行いからではなく、ダビデの時代ににはなかった、キリストの十字架の救いを見てはいませんでしたが、確信していたのです。

ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

4節には『あなたのくちびるの言葉に依った。』と書いてあります。わたし達は人としての考え方、例え。それが善意からの忠告、進言であったとしても、それらの言葉の基準が聖書に依らなくては、真の善意、教えとは言えないのです。

 『神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。詩17:6~9

 私達も日々。神を呼び求めて礼拝し祈り、賛美をします。神は礼拝を通じて賛美の言葉を聞きたいのです。神との関係を深めることが、神ご自身の望みです。ハレルヤ!!神は耳を傾けて聞いて下さるお方です。人の手で造られた偶像の神々とは違い、その耳で聞いて下さるのです。あなたが、神の御名を崇めるときに、御業を見せて下さいます。

この事は『主の祈り。』でも第一に教えておられます。

主の側に身を避ける者を、主の右に立たせてかくまって下さるのです。

あなたが喜んでいるとき。悲しんでいるとき。あなたが傷つけられているとき。
怒っているとき。あなたが、だまされ落し入れられたとき。争っているとき。
あなたが罪を犯しているとき。悔い改めているとき。あなたが落ち込んだとき。
失望しているとき。あなたが苦しみの時。病の時の苦しみの時。あなたの右におられます。

「私は罪を犯しました。あなたの掟は暗闇。罪の仮名では一層清く,輝きます。罪を犯したときには,その心が萎えて衰えます。あっ~ 私は何て事をしたのだろうか・・。貴方との距離が遠くに感いられます。私の犯した罪・過ちのためです。

それでもイエスは、あなたの神です。昼も夜も・・あなたの神です。
あなたを支えておられる神です。あなたの右にいて、救いの手をさしのべています。
少しだけ、罪を犯しているときの渦中の中では、あなたが気がつきにくいだけです。」

『私を、ひとみのように見守り、御翼の影に私を守ってください。私を襲う悪者から。私を取り巻くどん欲な敵から』と書いてあります。詩編17:8~9 

神は片時も離れず、私達を注視しておられる事を信仰によって感謝する事は重要です。 
私達を襲う、どん欲な者とは、神から私達を切り離そうとして多種多様の問題と病をもたらすサタン、悪霊達です。 しかし、そのそそのかしや誘惑に乗ってしまうのは、各自の責任なのです。

色々の問題が来たときに、真っ先に、神を仰がずに神の助けを期待して賛美しないうちに 
心の中が問題や病の苦痛で一杯、不安が先立ちます。それらに心の中が翻弄されてしまいます。 すると神が見えなくなります。 

神に祈っても答えられない。と嘆く方も大勢おられます。 それは、神を見ないで、問題を見て祈るからです。 この時の状況下では、心の中は微妙で複雑ですよ。確かに・・ 

「私達はよくこの様に祈ります。これこれを与えて下さい。これこれを、この様に解決して下さい。」と祈りますが、視点を変えて下さい。

それらは既に、十字架を通して与えられ、御霊によって私達に個人個人に既に与えられているのです。私達に与えられているものを、今更もとめても答えはないと言っても過言ではないです。既に与えられていることは感謝をすればよいのです。

エ!ちょっと待ってと言われる方もおられますね。じゃ何故問題が解決しないのですか?と思われるでしょう。 

17:15節 正しい訴え方をして、御顔を仰ぎみましょう。 

では正しい訴えとは何でしょう。十字架を通して約束された全てを信じて、その通りになるように訴えることです。私達は、問題や病は十字架で解決されているのです。それらを目の前に置いて、自己実現の助けを御霊の助けを祈る事が大切です。 

「問題や病を癒やしてください。」とそれらの問題を山積みの問題として 祈るのではないのです。 マタイ10:8には既に与えられて者として実行するように命じておられます。『 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』


解決された問題として賛美しつつ、十字架の現実を私の人生に実現を下さいと タイムリミットを設けずに祈り求める事で、親子関係=神との関係が構築されることは、神の望みです。

 色々の問題に関しては信仰を働かせて下さい。ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』とも書いてあります。 

これは、パンを作る材料が与えられているのと同じです。麦をひき、小麦粉に変え
パン種を入れて発酵させて焼いてから、私達はパンを口に出来ます。この原動力は信仰です。料理やパン作りを始めるときには、既に心の中でどのようなパンなのか、料理なのかを描き作ってから始めるのです。その結果。あなたは現実に食べられるのと同じです。心に描いたことは霊の世界では実現しているのです。

十字架を通して与えられた麦を、私達の信仰で粉に変えて、キリストの言葉のパン種を混ぜ合わせて、私達の人生で練り合わせ、聖霊の日の釜で焼き上げるのです。信仰と確信が全ての原動力なのです。

また確信しないとは、簡単に言うなら、「十字架で全ての罪が許された、私はあなたの罪を解決した。十字架の血潮で癒やされた。」とイエスが宣言したのにもかかわらず、 
その人が死ぬまで、「私の罪を許してください。問題を・・癒してくださいと」といつも、いつも祈り続け、罪や問題。病の恐怖から逃れないことに似ています。 

現実を見れば、確かに目の前には色々の問題。苦痛があります。けれど賛美を通して、完成された感謝を捧げることが、もっと大切だと思います。 一見。遠回りのようですが、賛美は解決を手にする真実な近道を見いだす解決策です。それが賛美確信です。 
あなたの十字架の全ての癒しの現実を仰いで、神を賛美してください。 

 15節には目覚めるとも書いてあります。主を信じた者は、主の前に目覚めます。それは永遠の国での目覚めです。ハレルヤ!!その目覚めの反対語は、眠るです。

キリストを拒否して亡くなった者は永遠の眠りです。元々。永遠の滅び。地獄は、サタンのために用意された所です。アダムにその約束、救いを契約したのは神ご自身です。

神はこのような永遠の眠り、滅びる人を一人でも亡くしたいと望んでおられます。隣人に福音を語りまししょう。

 あなたの上に、家族友人の上にも祝福が豊かに在りますように。