詩編20:6~9
今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。
主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。
この詩編は多くのとりなしの言葉。祈りで始まっています。
詩編20:2
主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように
神はその住まいとされた聖所に住まい、民のためにお答え下さいと、祭司であり王であるダビデがとりなしの祈りをしています。
私達は、主の答えが確実であることを再確認しましょう。また隣人の願いを知り、答えが与えられるように乗りましょう。
祈りはその方策ではありません。現代には、沢山のHOW TOが在ります。よりよい結果を得るためのガイド本です。 信仰はガイド本ではないです。 時々。聖書の黄金律を取り上げて,成功の秘訣を語る方もおられることも事実ですけれど・・
ただ、神に信頼に、信頼を重ね手、礼拝し賛美し崇めることです。
祈りは十字架から、既に来ています。与えられています。
「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」
この世の考え方からですと、聖書、神の考え方は、逆の発想になります。問題の解決をさておいて、祷りと賛美を捧げる。と聖書は教えるからです。
それは、油注がれた者を救われるからです。 王であるダビデを指し、また王の王であるキリストを指してもいます。しかし、それでけではないのです。
私達、主を信じる者は、全て主によって、油注がれた者です。ハレルヤ。
Ⅱコリント1:21 『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。』と聖書は語っています。
同じく、Ⅰヨハ2:20 『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』
Ⅰヨハ 2:27 にも、私達に注がれた油のことが書いてあります。
『あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。』
そのそがれた油には、あなたに力不足はないのです。 実感がないと思う方もいますか?それは信仰によって、既に受け取っているのです。 あなたの感情ではないのです。
十字架で流された血潮によって与えられているのです。
各自の信仰によって、聖霊の油を沸騰させましょう。沸騰させる燃料は、あなたの情熱の火、信仰の火によって燃やしましょう。
願い続けるなら 『主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。6節』
決して不足することなく、あふれ答えられるのです。
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