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2013年12月30日月曜日

あなたの奇しいわざ 詩編9:1

私は心を尽くして主に感謝します。 
あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。詩編9:1


なんと素晴らしいことでしょう。主が私達に目を留めていてくださるとは・・
私達は主に何をしていたのでしょうか?神を求めていなかったり、キリストの名前は知っていても、キリストを心の底から一切、疑わずに神として認め無いことがあります。

また、イエスを神であると認めていても、日常生活の中では、切り離してはいませんか?キリストご自身を心の中心にキリスト・イエスを置いておらず、自分自身の都合、判断や解釈を優先してはいないだろうか?

心の中心に神がいないことは罪を犯している事と等しいと言えます。「神を第一としなさい。」とイエスは教えておられます。それでも、私達が悔い改め、父なる神の御前にでるなら、キリストは全てを許してくださるお方です。

ダビデも失敗を、罪を犯しました。預言者から警告を受けて悔いあらためました。その時に、神が再び、ダビデを認められました。彼は何度も戦にも出ました。身の危険を味わったダビデです。それでも神はダビデも保護し守られました。神に深い感謝の賛美を捧げています。私達も日々の戦いの中に置かれています、けれど主は私達を支え守ってくださっておられます。私達もダビデのように、神を心から賛美、礼拝をを捧げて、その主の名を広げようではありませんか。 神を証しする者となりましょう。

 
 あなたはあなたを尋ね求める者を、お見捨てにはなりません。10節

 あなたは心から神を求めています? 何かあなたが、特別に困った時だけ求めるのですか。普段。神は目には見えないので、普通は実感がないのは当然です。私達が、神を知っていると思っても、それは聖書か知り得る、神の実像はごく一部です。

 聖書を見れば、おおよそのことは分かります。 人々が神について語ることを聞けばそれでも、おおよそは分かります。神様と直接、ふれあい、語り合ったことはありますか?。あなた自身が、神を知るために、神のご人格を求め、交わり知る事が必要です。

  あなたが、始めて、ある方と出合います。挨拶を交わして、自己紹介をして・・それでお互いを完全に知り合ったとは言えません。その後、何度も出合って語り合い、お互いを信頼し合うことが始まってゆきます。 あなたは、その方の願う事。希望と計画を知ります。

 互いに親しくなれば普段から手紙メール・電話の回数も増えてきます。特別な用事が無くとも、無駄話など含めて語り合うようになり、益々心の中心に入り込んできて信頼感が増してゆきます。あなたに突然大きな問題が起きます。
 
 あなたへの信頼度が、彼に対して大きく・・そのことを彼に伝えると、聞き入れて、問題解決のために力を貸してくれます。最初に出合ったときよりは、余計に彼は聞き入れるでしょう。最初の出会いは通りすがりの関係だったのですから、・・それを変えてきたのは、あなたの心に起きてきた彼への信頼度変化。信頼関係なのです。   この信頼関係の深さが信仰です。
 

 


祈っても答えがないと諦めないで下さい。あなたが神の心の中を知らず、信頼がない通りすがりの関係から、親子のような関係に入り込んでみて下さい。

神様は求める者には与えられます。「自分の子供がパンを求めるのに、誰が石を与える親があるか・・』と語られました。マタイ7:9~10 主の倫理を突き詰めて、考えがなくては、この箇所の意味が分かりません。神のご人格も分かってきます。

 この箇所では物質要求の満たしのことは、語っていません。次の箇所を見るなら、隣人の願いを聞き入れ助けること、天国について、狭い門に例えられ語っておられます。ちょこっと知っただけでは、本当に知ったことにはなりません。人間関係、友人もそうです。親友と言えるには、その人の人格を知りつき合わないと、親友とは言えません。まして、霊であって直接普段は目には見えない神を知るには、なおさらです。ゆっくり時間をかけて、もっと深く、もっと親しく、顔と顔とを合わせて神を知りましょう、尋ねましょう。その上で、より頼みましょう。 神はあんたを顧みられます。いざという時には必ず、たけてくださり、救い出してくださいます。

 人間が勝ちほこらないために。 国々が神の前に裁かれますように。19節

ダビデの祈りでもあります。私達は霊的なイスラエルです。現代においても、イスラエルの国に敵対する国々が無くなる事、神の手の介入を祈り、イスラエルの平和を祈りましょう。

 私達に肉体的に、精神的に、批判的に、霊的に。挑んでくる問題は多いです。多角的な救いと助けを求めましょう。助けを求めて、あなたを敵たいするものを裁かない、過去にあなたを悩まして苦しみを与えた方も許して・・  『あの人のしたことは許せない!』と長期間思い続けないで、神にその捌きをお任せしましょう。 あなたが許さないのなら、あなた自身が御前で裁かれないためにも、愛と許しは大切です。

 神は一番の愛と許しを、私達に与えて下さるのです。私達の行いに寄らない、愛の許しを 十字架を通して・・贖いを通して信じる者の上に 与えられるのです。

過ぎ去った日々の中で、キリストに出会って、神がして下さったことを、しっかり心に刻みつけて,そのことをいつまでも讃美して生きましょう。 次の試練に対して乗り越える力となる讃美を献げていきましょう。 

来る年月を 始めて受け取った時の・・神の愛を心に刻みつけましょう。  始めの愛を忘れないで下さい。

2013年12月25日水曜日

キリストの誕生。神の方から,顧みてくださる。詩編 8

詩編 8

人とは、何者でしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人のことは、何者でしょう。あなたがこれをかえり見られるとは。 4節


 神の栄光は全地に、その御名は行きわたっています。また空を見上げれば、神の創造の業と力を見る事が出来ます。

地上には、アダムから始まった人の歴史があります。神は私たちを子供として、友として創造されました。神の深い愛と契約を破ったために、罪がこの世に入り込み、罪がもたらす悪と苦悩が地に満ちてきました。私達、人の子を愛して止まない父なる神が、私達をかえり見られておられます。十字架の救いあずかる者には、神のあらゆる恵みにもあずかることが出来るようになさいました。 恵みの一つに、今日。私は助けられました。救われました。それは、主であるキリストを信じる私達一人一人に与えられた特権です。

 これに栄光と誉れの冠をかぶせられました。あなたの御手の多くの業を人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。5~6節

最初にアダムに与えた権威は素晴らしいものでした。人の子は万打つの支配すべく造られたのです。 単に家畜だけでなく、鳥や海の魚まででが、自然の全てもが、神から託され治めるように託されています。

今日を見れば、そのようには思えないです。自然破壊、環境破壊など、一般的に生活も乱れています。その原因を見ればサタンがだまし取った、人の子の権利があります。けれど、キリストが十字架に掛かり死んだことは、それらの回復の始まりでもありました。今日、全てのものは、私達の治めるところとはなっていない気もします。霊的な戦いの最中です。



けれど、主イエス様を仰ぎみましょう。主は既に、「私は天においても、地においても、一切の権威が与えられているのです。マタイ28:18と宣言なさいました。私達もキリストに似る者として定められています。ある者には預言者とされ、祭司とされ、伝道者とされ、教師とされ、橋架に仕えるものとしてです。この世を治める王としての権威も与えられています。十字架を通して信じるものたちを通して・・キリストによって死さえも克服、出来るように神は顧みておられるのです。 

 キリストの十字架を通して、私たちに与えられた権威を行使しましょう。悪魔と戦いましょう。悪魔はあなたを信仰から・・神の業から切り離そうと必死です。困難な問題や時には急病をもたらすでしょう。神の子としての権威で病や問題を退けましょう。うわべだけでは、権威は行使できません。深い理解と、葡萄の木の果実のように、信仰を実らせないといけません。キリストの言葉があなたの信仰の中に留まっていなければ、信仰と権威もうわべだけになってしまうので注意が必要です。完全な支配者を目指す者として・・それを神が願っておられる姿。私達です。

『取るに足らない小さな私。 けれど、神よ。あなたを見上げるなら希望がわきます。
 十字架から通して、与えられる望みの実現を果たして下さい。あなたの力と約束によって。』 神がアダムに告げられた救いを,私たちの上にも・・信じる者の上に現してくださる。





2013年12月15日日曜日

 心の詩編 7編  命のパン

詩編 7編

 私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫る
 すべてのものから、私を救って下さい。1節 
 主よ。私の義と、私にある誠実とに従って、私を弁護して下さい。8節
               


 差し迫る敵からの攻撃に、ダビデは、第一に神の前に出ます。命の危険がありました。それらを避ける手立て、方法などをを考える前に、神の目の前に出て祈りました。私たちにも、全ての者が差し迫る問題を持って、あなたを責めてくる事はないですか?神が解決して下さるために、神との信頼を深めて、御言葉を心に蓄えましょう。御心を行う者となりましょう。御言葉をを行う者の祈りには、神はお答えになるのです。何でも求めるなら、既に解決があるのです。 御言葉にとどまる者には答えがあります。ヨハネ14:14~15。ヨハネ15:6 ヨハネ16:34 求めるものは何でも・・ ここで勘違いしないで下さい。私たちが願い求め、与えられるものとは、質的な事柄、問題の解決より優先されることがあります。 それは聖霊を求める事です。神との深い交わりと栄光を求める事.御言葉に留まるなら答えがあります。 第一にも求める事は神の国の栄光とその義です。日常の問題解決のことだけ、あなたの必要だけにとらわれてはいけないです。マタイ6:33 私たちの問題.求めは、神は既にご存知です。神は、私たちに交わりと会話。祈りと賛美を第一求めておられます。

 ダビデは身の潔白によって、弁護を願っています。ダビデはあえて自分の義と潔白のを神の前に提示させています。絶たい的な潔白はダビデにはあるのでしょうか。聖なる神の御前には、誰一人として義とはされません。自分の誠実さを誰一人として主張は出来ません。ダビデも一人の罪人です。けれど、人間の間では、無実の罪に対しては潔白は明らかにしなくてはならないです。それらを証明するには、先入観とか多数の問題も出てきます。 濡れ衣とか、白が黒が代わるようなときには、神の助けが必要となります。 

 あなた自身の生活の問題からも、信仰上の問題からも、クリスチャンとしてとして戦う必要があるならば、神の介入を願いましょう.それは神の義と国にが脅かされるときだからです。

時にはあなたの使命に対しても誤解もあるでしょう。あなたの献身的な働きへの誤解や不理解もあるでしょう。その時には、神の導きと裁きと願いましょう.この裁きは、相互的です。相手先の事ばかりの裁きではなく、私たち自身も過ちがあるなら見直す機会です。その時に、人々の裁きがどうであろうとも、神は私たちの公正な弁護者であられます。


2013年12月13日金曜日

主よ.私を哀れんで下さい。私は衰えております。

 
 
 詩編6から
主よ.私を哀れんで下さい。私は衰えております。主よ。私を癒してください。2節



 ダビデは、ハープの調べに会わせて、嘆き、哀れみを神を求めています。私たちも、神に見捨てられたと感じる事はないでしょうか?神からの責めも感じたことはないでしょうか? そうです。私たちは、自分自身の行いでは義とされないのです。神の前には進み出ますが、行いや心の思いの悪さが、神の義の鏡に映し出されると恐れおののきます。
 
行いたくないと思う悪を行ってしまう私たちです。ローマ7:19~25 神の前には、私たちの行いよる義はないのです。神は私たちに律法を与えられました。旧約の律法は未来に対する罪と救いの導きの羅針盤です。新約の律法は過去からの救いとキリスト・イエスのある律法です。旧約の人、ダビデは未来への救いの導きを叫んでいます。罪の重荷からの救いを求めています。また敵からの攻撃に対してもおののいています。 何時。助けが来るのか分かりません。あなたはいつまでおののくのでしょうか?神の力を求めるときに、より深く神を求めて、礼拝に導かれるのは誰でしょうか?父なる神であり、聖霊様であり、私たちの主イエス様です。時に味わう不安や恐れは、神への礼拝へと導きます。

 あなたの骨はくじけそうですか? 神は、エゼキエル(28:12~17)に枯れた骨に向かって呼ばわって預言せよとも言われました。 私たちの主観では判断できないことを、神は見ておられます。未来を見ておられます。問題からの救出になんと時間がかかるのだろうかと嘆かなくても大丈夫です。試練の最中には、神は自分のことを忘れたかのようにさえ感じます。信仰も力付き、底を付いた感じもするでしょう。自分が忘れ去られたかのように感じます。人の感覚では遅れていると思うような事でも、神の時間にはストップはないのです。時間経過の感覚が、神と人と、大人と子供の時間感覚です。遅れていると思っても、忘れ去られて事ではないのです。人の千年は、神の一日です。

 神と人の時間の誤差を縮める方法は、親密な関係を保ち築くことです。私たちは愚かにも、同じ過ち罪を繰り返します。教訓を生かすべきです。アブラハムは妻を2度も人の手にわたしました。私たちの行いでは癒されません。
神の助け、介入が必要です。キリストの十字架の救いによる癒しが必要です。ダビデは信仰によって未来の救いを確信しました。アブラハムもただ信仰によって義とされました。彼の行いではなかったのです。

ダビデ自身の枯れた骨に向かって預言をしました。恐れおののきから一転して、未来の自分を見たのです。
『主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞き入れられた。主は私の祈りを受け入れられる。』8~9節
いかなる状況下でも
神はあなたに言います。『子よ。安心しなさい。私はあなたの側に居る。』と・・


                      

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2013年12月9日月曜日

神は災いを喜ばない

詩編 5;4
   あなたは悪を喜ぶ神ではなく、災いは、あなたと共に住まないからです。

 ダビデは神に祈り訴えています。私たちの言うこと・・祈りを聞いて下さる方であることを知っています。祈りは時にはうめきのように、苦しく叫ぶ時もあります。 必ず聞きとってっくださる神である事を、祈りの対象者がどのようなお方かを知っていました。(2節) 王の王に祈っているのです。うめき・・時には妊婦が子供を生み出す時に叫ぶ声のようです。

 エリヤは雨を降らす祈りと時に、7度、膝をつきました。その体勢は、まるで妊婦の産みの苦しみを上げる時の体勢を取って自分の顔を膝の間に埋めて祈りました。Ⅰ列王記18:42

 朝明けに、私は祈りの備えをし、見張りをします。 (3) 私たちの祈りは主との交わりです。会話です。一日の初めに神を求めて、祈りの準備をしなくてはいけないです。見張りとは自分の心を見張らることです。私たちは、案外と直ぐにくじける弱い存在です。 誰かに会いに行くまえに、プランを立てます。何処で会うのか?どのような話をするのかを考えます。
その中で、必ず話さなければいけないことも決めます。

 王の王である神様の前に出るときに、父なる神の臨在の前に出る時に、心の準備無しに行き当たりばったりでは、神は私たちの祈りを喜ばれるでしょうか?

自らの不信仰から出る不安を打ち消すかのような、繰り返しの祈りであってはいけないと思います。自分の願いばかりの一方通行の祈りが多くないでしょうか?一方通行でなく、神の願い、計画も、その時が何時であるかも聞き入れなくてはいけないのです。


 主の祈りを見てみましょう。 第一に、神を賛美し、神の御名があがめられるようにいのります。 私たちの日々の糧の間に、私たちの必要の祈りの前に、神の御心を願い求め、神ご自身の必要を聞き入れなくてはいけないのです。

また悪より守られ救われることを願います。赦しもいのらなくてはいけません。そして私たちの糧を祈りのです。
ただ何年たっても ひたすら赦しを願い祈ることは不自然です。

それは逆に神の救いと購いが不完全であるかのような告白にもになりかねませんから注意して下さい。
神の救いは完全ですから

許しを求める祈りは、ソドムが滅びる前に、神の前に執念深くとりなしたアブラハムのように、人々の救いを・・日本の救い、世界のために祈らなくてはいけないです。

これが祭司の役目としての キリストに在って与えられた職務です。
 
 
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2013年12月5日木曜日

聖書 詩編4章

知れ、主は、ご自身の聖徒を特別に扱われるのだ.私は呼ぶとき、主は聞いて下さる。

 詩編 4章 3節   ダビデの賛美歌です。

 苦しみの時に、ゆとりを与えられる神に賛美を捧げています。賛美。それこそが、あなたに力を生み出し信頼を増し加えます。祈りが答えられる確信も生み出します。 神は、私たちが神ご自身を、知る事を望んでおられます。神の知り。崇められたいと言っても過言ではないです。主の祈りの一句にも『あなたの名が崇められますように.』と祈るように語られ教えられました。 私たちは、天地創造の父なる神を知らないといけないのです。

 何故なら、神は私たちを特別に扱いたいのです。呼べば答えるとても近い存在となられたいのです。そのために色々の訓練もされる神様です。ダビデも試練に遭いました。それは義の生け贄です。試練に在っている者しか理解できないこともあります。

 試練にあっているときには、あなたの周りの人々には、神はあなたを見放したかのように見るでしょう。でもそのような中で、神を求め続けるなら、あなたの試練の場所は聖所となります。美しい庭のある、神と深く交わる神殿となります。時には病の庭だったり、孤独の庭とも呼ばれるかも知れません。生活苦の困窮の庭だったりもします。神は、私たちに交わりの聖別の庭の中で大声をだして叫ぶことを求められます。

 庭と言えば・・ゲッセマネの庭で、イエス様から3人がとりなしをするように申しつけられました。教会にも、あなた個人にも、とりなしの祈りをする方を用意されます。 もしも、あなた個人のために、とりなし手がいないなら、またお互いのために、祈り会う方を見つけましょう。

 主は特別に、奉仕する人を命じられます。ある人を聖別されます。「家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。」Ⅱテモテ2:20 それぞれに器の用途が違うように、 奉仕に、祈り手にそれそれの個性も用いられるのは神です。

 あなたの成功や不成功。幸せから不幸へ。希望から絶望へ引き下げられて、また引き上げられても、その中に、神の意志があっても不思議ではないです。さらに生涯を通じて、主があなたを尊い器へと変えられるためです。神の奉仕に用いるためです。聖霊はある人を・・あなたを・・ある目的のために聖別され、特別に扱われます。

 交わり叫ぶときに、主は答えを出されるのです。



 



ゲセマネの園 オリーブの木

聖書 詩編 3章から

『私は身を横たえて、眠る。私はまた目を覚ます。主が支えて下さるからだ。』 5節

 あなたは日々。安らかに床につき、また目覚めていまか。この詩編3章の背後、作者は戦いの中にありました。しかも、愛して止まない我が子が、彼の王座を欲しがり、父親ダビデを殺そうとして反逆していたのです。ダビデは親子関係と、ダビデ自身の命の不安がありました。そのような中で、彼は一切を、神に委ねて安らかに寝起きをしたのです。


 社会に目を留め考えたり、自分の生活を思うなら、現実は目間苦しく、移り変わります。突然の思わない事故、災い不幸が、私たちに降りかかってきます。

 また、人はその富を、地位を、その成功を誇ります。あなたは、それらの一切を、神から見いだしておられますか? 

王座に就いていたダビデは急激な変化にも、 神を見上げています。 神の教えに従う物には、幸せ、豊かさ、成功が約束されています。けれど、時には急激な変化や不幸もあります。 アブラハムは神の言葉を信じて義とされました。

しかし、神はその約束の実行は、100歳の頃でした。義とされてから10年、15年と時が過ぎさりました。神の約束である子供が与えられませんでした。 その間、アブラハムは神の信頼し続け、彼自身の信仰を整えたのです。

 詩編3:1では、急激は変化を、神に訴えています。信頼と信仰の経験から、 頭を上げて下さるのは、父なる神しかいないことを、告白しています。 続いて、声を上げて祈りました。  


 エレミヤ33:3にも、『神に声を上げて祈り、叫ぶと答えられる』と約束が書いてあります。心を裸にし、実際に大声で祈り叫んでみて下さい。大声は恐れ不安を解放します。

山びこや、あなたに返ってくるように、神があなたに答えを出して下さいます。3:4 
敵の頬を打ち、歯を砕いて下さいます。3:7 

 神の救いは信頼と賛美の在るところに、あなたの所に必ず来ます。



2013年12月4日水曜日

詩編 2章より




 『あなたは、私の子。きょう、私があなたを生んだ。私に求めよ。私は国々をあなたの譲り地として与え。地の果てまで、あなたの所有として与える。』 詩編2:7~8


 私のことは誰でしょう。それはイエス・キリストです。
しかし、イエス・キリストは霊的な存在として、創世記の初めから存在されていました。

創世記の初め。創世記1:26には、我々とご自身を呼んでおられる神です。

創造主、父なる神。子なるキリスト。聖霊様として、私たちは三位一体の神をはしています。

3人の神のご人格が存在しておられます。ユダヤ言葉の意味からこの箇所を見るならば、
1+1+1=1なのです。 決して。=3にはならない!三位一体。そうです。
人間の理解を超卓越した、神の存在です。

第一に、この箇所で言われるのは、キリストであり、ダビデの時代の数百年後に起きる、キリストの復活を預言をしています。けれど、単にキリストの復活だけを預言したのではないのです。 キリストの十字架の血によって、私たちが結び合わされた時に、私たちが、悔い改めた時に、十字架の復活の力に預かり、私たちが生まれるです。 父なる神は、私たちに向かって、『あなたは私の子。』と呼びかけています。 

また、幸いなことに、『私の求めよと.』と宣言をしてくださっています。 国々が与えられるのです。
黙っていても、自動的には与えられません。もとめる事。この事を、私たちに課せられています。

国を勝ち取ることは、霊的な戦いとも言えます。

神の国を勝ち取ることを、神は私たちの背後で支えてくださいます。 

アブラハムも暗闇の中で、当時の最強軍と戦い、奇跡的な勝利をしています。
(創世記 14:14~16) わたしたちは、戦いに出なくては、国を勝ち取れません。 

また神の国を勝ち取ることは、福音宣教をも意味しています。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』 マルコ 16:15

まずは 一歩、あなたの隣人に ,家族に キリストは私の神様ですと告白することから始めましょう。

その告白が 家族を救いに 日本を救いに 導く一歩となります。






心の歌。命のパン 喜びの讃美の一歩

私の心に残る歌。聖書の詩編から+


 別のチャンネルで、一時。詩編のブログを書いていました。
新たな気持ちで、再開いたします。

途中までは,前記の記事と一部の部分では重複しますが,又再度お読み下さいましたら幸いです。
宜しく お願いいたします。 神からの祝福が貴方に注がれますように祈りながら・・



 『時がくると実がなり、その葉は枯れない。』詩編1:3より





 桜は私たち日本人にとっては特別な花ですね。とても短い期間。でも心に残ります。
花が散ること。それは次のステップ 実がなるためには花は散らないと行けないのです。

聖書から見てみれば、花が咲き散ることは次のステップである、豊かな実を結ぶための準備です。主イエス様の言葉の中には、
『私は葡萄の木で、あなた方は枝です。人が私のとどまり、私のもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くのみを結びます。
私を離れては、あなたがたは何もする事が出来ないからです。誰でも、私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てらて、枯れます。』 ヨハネ15:5~6 

 植物の植物の成長には水は欠かせません。詩編1章にも、同じ考えが書かれています。水路の畔に植物が植えられて成長し、豊かな実を結びますと語られています。主エスは、私たちの霊的な命の水です。イエス様の命の水の畔(水路とは、人の手による水の流れ=聖書)に、人生の根を張りましょう。イエス様は約束をしてくださっています。『流れの畔に根を下ろすなら、あなたのなすところは、みな栄える。』と約束をなさっています。人生に思わず困難が来ます。誘惑もあります。まるで、私たちを燃え尽くすかのように、次々と問題や誘惑がやってきても、イエス様と言う川の畔に、根を張った信仰を保ち続けるなら、イエス様から、御言葉という水を吸い上げることが出来ます。 しぼまない、かれない美しい実を結ぶ環境は整えられているのです。

豊かな人生の実を結べるのは、イエス・キリストにつながっていてこそ、豊かである、真実の実を結ぶことが出来ます。 この世には、積極思考という発想もあります。それはそれでよいことです。何故なら、多くは聖書のルールが用いられています。クリスチャンでない方が大いに用いていますけれど・・クリスチャンでなくても成果が出るのは、聖書はいかに真実の言葉を語っているかが分かります。けれど問題は、一般的な積極思考だけですと、その中には、聖書の思想も多く取り入れられています。問題はその中にはキリストの言葉の命がないのです。

 あなたの唇には、神の言葉の命が移されていますか?聖書は薦めています。神の言葉を夜も昼も喜び口ずさみましょう。 神の言葉の命が、貴方に移されます。 あなたの人生の根を、人から神に移しましょう。神の教えを「口ずさみ、思い巡らしましょう。」 キリスト教会に行っているからだけではなく、キリストの言葉の中に、御心の中にとどまらなくては、祈りも聞かれないし、本当の意味での豊かな実が結べないです。ヨハネ17:7

  キリストにある、とどまって得られた、その喜びを人々にも分け与えましょう。福音を伝えましょう。 神は、私たちが豊かになることを望んでおられます。一方的には、神から恵みは来ません。私たちが信仰と決心と希望と行動を求められています。 それは、私たちと神様のの共同作業と言っても良いでしょう。 神と共に
働き、恵みと成長する事を、実を結ぶ事を、神は望まれています。

根である私たち自身が、水を求めて吸い上げるという作業が、私たちに課せられています。 水路は作物の成長の為に、自分から掘り進み、水路を作り自分の作物の豊かに実ることを願います。水は命の水であるキリストから流れます。水路は、キリストの十字架から流れる力と助けによって、あなたの信仰によって、作り上げて完成されます。