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2014年4月23日水曜日

@ 聖書 詩編 24より


この詩編は,大きく2つの文節があります。

主の主権を認め賛美する節です。次に主の栄光が私の中に降りてくる喜びの節です。

1節には、『地とそれに、満ちているもの、世界とその中に住み者は主の者である。」と宣言しています。


この世界は主によって築きあげられたと告白し認めています。
世界のもの,すべては主によって創造されてと告白して,私たちは種に属している者だと語っています。特に主を礼拝者、救われた者は主によって新しく作られた者です。
  
ヨハネ 3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

Ⅰペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

Ⅰペテロ  1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 主から生まれた者は、主が養います。前記の23編のように羊飼いとして私たちを養うのです。  養われるためには、全権をその養う方・・神様に委ねなくてはいけません。


 「門よ。おまえたちの頭をあげよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の主が入って来られる。」7節から大きな流れの節が動きます。

        


神はただ御座に臨在をしておられるだけでは無く、私たちを静観しているのでも無く,
私たちの心と魂の中に下って,、その処。私たちの霊の中を住まいをして下さるのです。

私たちも住まいとなさって下さいと、心と魂を父なる神・キリスト・聖霊様に、心を明け渡して、主によって支配されることを喜びとしなければ意味が無いですね。

 ダビデの賛美ですが、神がシオンを住まいとされる前にはなにがあったのか?

それは敵に契約の箱が盗まれていたのです。神はその敵を支配して困惑させ、戦利品であった契約の箱を,イスラエルに返したのです。ダビデはその契約の箱がシオンの丘に戻ってきたときに、この24編を歌いました。

契約の箱のあるべき処は、主を礼拝するあなたの心の中に留まらなければなりません。

主の契約、救いがあるところには賛美があり、主はその賛美を住
まいとされます。そして恵みとしてあなたを救い養います。

あなたの問題の前でも酒宴を開く余裕を与えるのです。あなたが、主に支配されることが第一の条件となります。
神の恵みと賛美があなたの上に豊かにありますようにと祈ります。


  24編のを生活の中で生かす。

 門が開けられ、神が入ってくるところは,あなたの心の中です。
『門よ。頭を上げよ。』とダビデは宣言しています。7節  ダビデはいかなる場合でも主に使える心と常に神を喜び 勝利宣言告白する心をを持ち続けました。

契約の箱・・それは現代では聖書にあたります。

主の臨在を絶えず喜んでいました。喜びの賛美があるところでは主が勝利をなさいます。あなたの不安は信仰不安につながりますし、あなたの敗北にもつながります。

不安は主を退けるからですね。

世の中には傷つくことは確かに多いです。あなたがたたかれることもあります。疲れることもあります。しかし、あなたの心に住まわれる主キリストの臨在に気がつくならば、万軍の主、勝利の力の源であるキリストに信頼を重ねていくなら,神はあなたの頃に住んで下さり,あなたに勝利をもたらします。そして、あなたは神からの祝福を受けるのです。

病になっても不安に打ち勝ち、既にキリストの十字架。購いが、あなたの打たれた傷、病も治して下さった!過去の病として感謝し癒やしを受ける心構えも重要です。

癒やしだけでは無く、次々と起きてくる各種の生活の中、仕事。事業のこと・・・問題も解決されてと感謝讃美始めると 後から現実=解決がやって来ます。何故なら、神は全てに勝利者。私たちをその勝利者として導くのです。 不安は捨てましょう。

日々コツコツと日々の生活と讃美を煉瓦を積み上げるかのように・・折に触れて ベストな設計プランの変更さえも語りかけて下さいます。神の声を聞くためには、あなたから神に近づく事が第一条件です。

想像を超えた助け、アイデアなど色々の方法で、神様は私たちの手を引き上げて下さいます。

神の声を聞く方法の第一は、私たちが神に近づく事です。
リンク 神の声を聞く 
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今一度。 詩編24を見直して下さい。

24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。
 24:2 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
 24:3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
 24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
 24:5 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
 24:6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 セラ
 24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
 24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
 24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
 24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。 セラ

2014年4月16日水曜日

@ 詩編 23より

 詩編23

ダビデは以下の素晴らしい歌を神に捧げて讃美しました。
キリストを信じる者あれば・・又 聖書を1度は読んでおられるならば 必ずと言って良いほど読まれる詩編の23番です。





ダビデの賛歌
 23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

   羊はその性格として、一匹では生きていくことが困難です。
少し気ままでもあります。集団で無いと生活が出来ないのですが、時には、その枠から迷い出て、自分の食べたい、牧草を探したい所に勝手気まま ある意味自由?しかしも後戻りが出来ない性質を持ち合わせています。  迷い出る羊の原因でもあります。

羊飼い。その主人の顔もよく知ってもいます。
  偶然。有る道筋で、私は羊の群れの前に、立ち会わせてしまいました。(海外に居たときの話しです。) 羊たちはビクリとも動かなくなりました。
  羊飼いは『 ムッシュー(私のこと)少し道を空けてくれないか?羊が動かなく成るから・・』」と言いながら、羊たちに声を掛けると、一斉に私の横をする抜けて言いきました。

  羊には、羊飼いの存在が不可欠なのですね。
その羊飼いが、羊たちの必要を完全に満たすのです。
時には熊やオオカミ等の猛獣からも、羊たちを護ります。


 23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

神はその栄光のために、ご自身の力を現されます。
ご自身の語られたこと、御言葉を実行なさいます。
喩え私たちが、間違った道、方向に歩み出しても、連れ戻して下さいます。

神がソドムを滅ぼそうとしたときに、彼の甥ロトのためにもアブラハムの願いとりなしを聞かれて、ソドムからロトを救い出されました。しかし、ロトは完全には神の言いつけを聞かないで、途中で止めてしまいましたけれど・・

注意が此処で必要です。完全にしたがったのか?許容範囲だったかで結果が違うことを、覚えて下さい。

予言者、バラムが間違った道を歩もうとした際には、ロバが先に天使達を見つけて引き下がりました。そのロバが口をきいて、予言者バラムをたしなめました。
神の注意は何時も穏やかなのです。なので、私たちは気がつかないことさえもありませんか? 神は私たち一人一人の決断を重要視なさいます。

ダビデは屋上から見た女性を欲しがり、その夫を戦場に送り、計画犯罪を犯しました。
預言者はダビデの罪をたしなめました。彼は大きく悔い改めました。
悔い改めるか?開き直るかはダビデ自身が決断しました。

 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私たちはこの様で生きている限り、苦難や苦しみ、病との戦いです。
人間関係にも疲れが生じます。 私たちはキリストに向かって自分の解決されたいことを願います。
  神は、それらにも答えを下さいます。
神が叶えて、どれだけ、ご自身が崇められるか?栄光につながるか?を推し量られます。
私たちの個人の欲望を満たす願いは聞かれないと思います。悪い欲望を満たすのはサタンの力です。神が聞いたわけでは無いのです。

キリストを信じたのに、何故こんな事で苦しむのかと疑問さえ湧きます。
けれど、神の鞭は正しい道に導くと覚えるならば、どんな事柄も乗り越えられます。神様の御心に立って、祈りの答えは神が出されます。
試練によって成長して、私たちは強くなれます。ダビデの障害を通して見ても、沢山の苦しみ、誤解され、病にも成り 戦いがありましたが、絶対的な信頼を父なる神に捧げ通しました。

 23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

神への信頼の報酬を私たちは受け取ることが出来ます。

 人間関係に疲れて・・教会の中に居て孤独を味有ったことが無いですか? それでも神は貴方の側におられます。

時に正しく正当なことを言うと、仲間はずれに遭うことが、私たち人間社会の中でも良くおこります。クリスチャンになった途端に・・

あなたが御言葉に沿って正しいので、抵抗勢力が妨害するのです。(ある領域では霊的な戦いです。)

クリスチャンとは キリスト馬鹿と言われた名残の語源です。
それだけ熱心に何時もキリストを話して伝えていたからです。


 23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

あなたは決して孤独では無いのです。神が私たちの側におられることを現実的に受け止めましょう。


    



  私たち人間側の自己の利益では、神は答えられないです。

感謝と讃美が無くしては次の答えも無いです。どの様な事があっても神から離れない決心が不可欠です。

あなたの上に羊飼い成るイエス様が側におられることを感謝して、その臨在を覚え続けましょう。


追記。

 季節が変わります。椿も桜も終わりかけの神戸です。
けれど変わらない神の言葉と復活の証 主が生きておられることです。
次の御言葉を頂き、失望から立ち上がれ、私の癌に立ち向かえました。癌が治りました。癒やされました。失意と絶望から立ち上がる希望を頂いた言葉です。

現実を見れば、まだ手術まで祈る事さえ出来ない元気も無いときでしたが、『喩え、死の影を歩みとも・・』 この言葉から癌が治ったと信じて受け入れ、治って緑の牧場=私の社会生活の場を元気に飛び回っている姿を想像し、感謝の讃美を始めました。
治った現実を受け入れたのです。<手術まえでした。>

医師が手術を始めると???確かにレントゲンや癌反応が何度調べてもそれらしい癌は無く消えていました。
医師が首をかしげながら、説明をして下さいました。


希望と信頼が、私たちの信仰の成長させる種です。水を注ぎ育ててくださるのは、私たちの助け主の聖霊様です。

<< 詩編 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。>>  

祈っても直ぐに、応えられないときもあります。その時に答えが無いのでは無く、その時に応えがないだけです。不安に打ち勝つならば、時を見計らって、神は必ず答えられます。応えと答えの違いだけです。1度 聞かれた神は、年月を隔てたとしても、ご自身の栄光のために叶えられます。

個人、個人の祈りにも年月を要して叶えられた事も 聖書には書かれています。キッチリと神は答えておられます。神を待つ間に信仰が強められますように。




私たちの祈りが、御心に沿った祈りであるならば、キリストの十字架を血に染めた神です。 椿の木が、十字架と思えて撮影しました。受難週を覚えて・

合わせてこちらもご覧下さい。
YouTube動画 LOVEJOYwwjdさんのチャンネルより


 http://youtu.be/SX4ly9pwPIQ

2014年3月19日水曜日

@ 詩編21より 喜びは・・


21:1~4 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。 セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。
     

21編は、とりなしの賛美です。

祭司や会衆が、王であるダビデに、生ける神が,ダビデに働いておられる事の喜びと感謝賛美を捧げています。

神がおられ、ダビデを支えておられる事。王を支えるので、国民である会衆からの感謝の声が、
キリストへの賛美なっています。

私達は、キリストの十字架の贖いによって、神の国の民となっています。
私達はキリストに栄光が増し加わるように祈り、かつ、その栄光が実存していることを
感謝しなくてはいけません。

キリストの冠は栄光の純金です。私達は永遠の命を求めました。そして、与えられています。王であるキリストに願う願いは、決して退けられません。

 時々 祈ったけれど答えがないからと失望なさる方もおられます。

答えがないのではなく、既に王であるキリストによって与えられているからです。

では何故でしょう?探し方が悪いと見つからないのに似ています。
沢山の祈りの答えが既に、私達の周りに来ています。 探し方ら悪と見つからないのです。

リアリティーを捜しましょう。それは信仰によって得られる、捜せるのです。助けてある聖霊様と
ご一緒に捜しましょう。  リアリティーを待つ間に大切な事があります。 
あなたの信仰の成長です。また賜物として活用できる段階的な成長です。

 ダビデに油注がれてから、サウルのところに連れてこられました。しかし、ダビデは直ぐに王になったのではないです。試練苦難、死の谷を歩みました。
でも、既に神からの油は注がれていました。
またダビデも色々の経験を通して、神への信頼を育ててゆきました。

 神はアダムを創られました。  

アダムは、私達の創造主の期待から外れたことをしました。けれど、神はそのアダムに救いの道を備えて下さいました。 アブラハム、ダビデ、キリストを通してその計画は実行されました。
私達も母の胎の中で創られました。救いの約束されて、私達は生まれました。
しかし、私達一人一人が,その救いの約束に対しての告白して信仰を その救いを受け入れなくては確定されないのです。

主キリストを、私達が信じる事は、キリストの栄光となります。
だが、主の栄光を奪おうとして、霊的な戦いはあります。その矛先は、信じた私達に向けられています。
敵とはサタンです。9節には、敵を徹底的に、飲み尽くすと書いてあります。 

気を緩めることなく、神に賛美と信頼を重ねましょう。私達の捜し物、現実性を奪い隠すからです。
敵の一番の方法は、私達に失望感を与えてダメージを加えるのです。
信仰の人。ヨブも試されました。 妻からの神を呪って見たらと唆されて・・

 私達も試されないことを祈るべきです。と言って 試されることをおそれてはいけません。

詩編21:6~7
あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。

 私達は、王なるキリストに支えられて、信頼を学び知り、答えを探し出して、喜びが実現するのです。

詩編21:13
主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。

  私達の祈り願い、捜し物は、主の栄光が崇められるためにあるのです。

捜し物、祈りの答えが優先であってはいけないのです。 答えが願いが優先であるならば、答えが無いその間。失望感がつのるでしょう。 それでも主をい求める者には、 神が良いとされた時に、神の手からの喜びを得るのです。

 詩編21:6
『 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼(王につながる私達)を楽しませてくださいます。』

2014年3月15日土曜日

@ 聖書 詩編 20章より

詩編20:6~9

今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。

 この詩編は多くのとりなしの言葉。祈りで始まっています。

詩編20:2

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように

神はその住まいとされた聖所に住まい、民のためにお答え下さいと、祭司であり王であるダビデがとりなしの祈りをしています。

私達は、主の答えが確実であることを再確認しましょう。また隣人の願いを知り、答えが与えられるように乗りましょう。

 祈りはその方策ではありません。現代には、沢山のHOW TOが在ります。よりよい結果を得るためのガイド本です。  信仰はガイド本ではないです。 時々。聖書の黄金律を取り上げて,成功の秘訣を語る方もおられることも事実ですけれど・・

ただ、神に信頼に、信頼を重ね手、礼拝し賛美し崇めることです。
祈りは十字架から、既に来ています。与えられています。

 「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」

この世の考え方からですと、聖書、神の考え方は、逆の発想になります。問題の解決をさておいて、祷りと賛美を捧げる。と聖書は教えるからです。

それは、油注がれた者を救われるからです。 王であるダビデを指し、また王の王であるキリストを指してもいます。しかし、それでけではないのです。

私達、主を信じる者は、全て主によって、油注がれた者です。ハレルヤ。

Ⅱコリント1:21 『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。』と聖書は語っています。

 同じく、Ⅰヨハ2:20 『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

Ⅰヨハ  2:27 にも、私達に注がれた油のことが書いてあります。
『あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。』

 そのそがれた油には、あなたに力不足はないのです。 実感がないと思う方もいますか?それは信仰によって、既に受け取っているのです。 あなたの感情ではないのです。
十字架で流された血潮によって与えられているのです。

各自の信仰によって、聖霊の油を沸騰させましょう。沸騰させる燃料は、あなたの情熱の火、信仰の火によって燃やしましょう。

  願い続けるなら 『主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。6節』  
決して不足することなく、あふれ答えられるのです。

2014年3月5日水曜日

@ 詩編19よ

詩編19:1~2

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す

 ダビデは、無言の内に語り伝えられる、神の天地創造の業に驚き賛美しています。
 私もアフリカの大地、サハラ砂漠横断をしたり。大河ユーフラテス河の畔に立ったり、
メソポタミア砂漠、アブラハムの見上げた位置から、星空を見上げたこともあります。
また、日本のアルプス、スイスの山々の頂に立ったりしながら、神の業の素晴らしさに、思いを馳せた事があります。

 大自然の中で、見いだせる神の素晴らしに驚嘆します。人の小ささも思い、神を礼拝に導かせます。そんな思いを抱くのは私一人ではないです。それは礼拝する対象者が、天地を創られた神だからこそです。 単に自然を礼拝する信仰もあります。しかし、山や動物が礼拝の対象ではないのです。

詩19:7~9
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

聖霊によって導かれ、書かれた聖書は言葉は完全です。 聖書を自分の利益を求めて読んでも意味がない。そこにはキリストの証しが書かれている。

書かれた言葉が、生きた言葉となり。キリストから語り掛けられたように思える。涙を流し、ある時には、聖書から新しい夢に出合いニンマリ笑う。またあるときには、アッそうだ!!と驚き、御言葉からの励ましに嬉しくなって賛美する。 

知識、知恵が与えられ、かしこくもさせてくださる。罪を示され驚愕する。悔い改めに導く。放蕩した者を父の元に帰らせる。落ち込んだ者には元気と希望を与えてくださる。
神言葉、聖書は完全です。

詩19:11-12

また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

人は罪の意識がありません。この世の罪を思うからです。神の国の法律は、聖書から理解できます。十戒などが書かれています。今日。色々の考え方が出てきています。律法はユダヤ人だけで、異邦人には守らなくてもよいとさえ言う方もいます。
でも聖書は言います。その報いは大きいと・・    天国に着いて、最後の審判の時に歯ぎしりしても、既に遅いのです。

「知らない隠れた罪を示してください。」と、ダビデは願いました。神、創造主を知らないことも罪です。人は欲に引かれると・・誘惑に落ちいると感覚が麻痺します。それは怖いことです。初めは小さな誘惑、でも結果は大きな罪であり、その人の魂を破壊します。

ネットから各所の情報が、私達の所にもやってきます。 少しだけは・・でも気がつく時には取り返しが付かないこともあります。

ヤコブ1:14-15 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

私達は、隠れた罪、気がつかない罪を許される必要もあります。上司、牧師、友人として何気なく語った言葉は後戻りし、あなたの口には戻りません。その口から出た言葉によって、傷ついて人がいるかも知れません。謙虚さとへりくだりが不足していたかも知れません。 また、いくら傷ついたからと言って、何十年も許さないことも罪となって行きます。

御霊の導きで祈りましょう。

ロマ8:26 『 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』

神は、神の元に返ることを強く望まれた。汚れと罪の垣根を取り除くために、十字架の橋を架けてくださいました。その橋を渡りきりましょう。その道しるべは、聖書の言葉です。

一旦。御言葉の道を歩み始めて、後戻りはしないで下さい。立ち止まることがあっても・・ 
キリストにあなたの重荷を委ねて信じましょう。  自分の十字架を背負いましょう。  

マタイ16:24

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
マタイ11:30 『 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

 神はダビデの告白を喜ばれました。私達も同じ告白に導かれる感謝を捧げます。主よ。

詩19:13-14

『あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。』

2014年2月28日金曜日

@ わが力。私は、あなたを慕います。詩編 18より

詩編 18:1~4
彼はこう言った。主は、わが力。私は、あなたを慕います。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。
死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

 この詩編は、ダビデがサウル王に勝利したときに読んだ神への賛歌です。

サウルはダビデを妬み命を狙う存在でした。しかし、いかなる場合でも、ダビデは主を慕い求めていました。 これは彼の人生を通しての姿勢です。この勝利を得るまでの期間どれ程の月日が流れたのでしょう。この長い年月の間は、神に対して、恨み言は一切はいていません。


ダビデは多くの兄弟の中で末っ子でした。彼の存在と価値は、彼の父親もあまり認めないほどでした。羊を飼いながら、主との深い交わりをしていた少年でした。予言者が油注ぐときにも、父親は彼の存在を忘れていました。でも神は少年ダビデを見いだしていたのです。

あなたは親からの虐待を受けたことがありますか。無視されたことがありますか?
親からでなく、友人から 酷い誤解や酷い言葉を受けた事がありますか。時には上司、牧師からだったりしていませんか。確かに、上記の状況下では、本当に心が傷ついて悲しいですね。 あなたの心の正しさを、誰にぶつけてきたのでしょう。彼は無視したサウル王に対しても忠実でした。自分の手で、サウル王を殺すチャンスはありましたが。殺さずに身の潔白を主張しました。その彼の姿勢は、神を慕う姿勢と信頼から生まれたのです。

ダビデは、神に向かって、『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方。』と告白賛美しています。神に、彼の潔白を主張し訴えては来ましたが、敵から身を避けても、打ちのめすことはせずに、神の手に任せてきました。47節にはこのように告白しています。
『この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。』
 神に対して、親は子を守るために戦うかのような信頼を寄せています。

『わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。』 盾は身を守り、やぐらは身の危険を見守る所です。神は、神に信頼する者に対して、神も彼を信頼します。

ローマ9:15にはこのような神のご性格が書かれています。『神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。』敵となったサウルに対しても、潔白は訴えましたが、殺す事や恨み言は一切、神には上申した祈りはなかったのです。 そんな彼ダビデを神は愛されました。
人を愛する人には、神は深い愛を与えてくださり、哀れみを与える人には、神は、その人を大きく哀れむのです。人のために、祈る人には、イエス様が父なる神の御前で、祈ってくださるのです。

 人が祈りを求めて、その答えを頂くには、人が期待する年月と神の計画にはさがあるときもあります。 『神様は、私の祈りを聞いて下さらない。』とあなたが告白するなら、神は悲しみます。神は親として、子供である私達に選んだもっともよい時期に、答えを下さるからなのです。
詩18:6 『私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。』
 神の目には、あなたの祈りが届いているのです。ここで注視したいことがあります。
神の耳に届いたと告白していますが、ダビデも直ぐに答えたとは書いてないのです。
 でも、でも神の耳に届き、聞いて下さっておられるのです。この間には信頼関係が生まれてくるのです。
詩18:30
『神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾』輝く黄金のように、神の計画、その道筋は完全なのです。純粋にあなたを持っておられるのです。
神から見捨てられたと、どうぞ思わないで下さい。

詩18:32~33
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

神は「あなたの道を備え整える時間が要るのだよ。」と答えておられます。
詩18:35
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

  ダビデは、神様のことを謙遜な方だと告白していることに驚きます。その神の謙遜が、私達を大きく育てるのです。 私達が、問題や自分の祈りを手放すときに、神は動きやすくなり、ご自分の意志で働きやすくなるのです。  神はあなたのために、あなたの祈り、指示ではない戦いをして下さるのです。 その間は、あなたの人生に芽が出るまでの期間も要るでしょう。桃とかクルミの種。身の固い種がありますね。芽が出るまでの間、結構長い年月が要ります。しかし、固い殻が腐敗から種自体を守っているのです。あなたを襲う人生の様々な出来事から、神が、堅固な殻のようになって、あなたを守っておられます。 
 ダビデは哀れみの心を多く抱く人でした。このような物語が聖書には記録されています。
Ⅱサムエル9:11
ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。

サウル王の血を受けぐ孫を保護して、一緒に同じテーブルで食事をしたのです。
 ダビデは、哀れみの心を多く抱いた人でした。自分の敵の血を根絶やしにしないことは、将来。命を狙われる可能性もあった時代です。 そのようなダビデを哀れみ深さを持ったいたので、神は守られたことも心に据えて頂きたいのです。あなたを傷つけた人々に対しても、どうぞ、哀れ者心を持てるように、祈って下さい。神はあなたを哀れまれます。
あなたの盾と成り、あなたを支え守られます。

2014年2月18日火曜日

@ 詩編17より

詩編 17:3

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。

ダビデは賛美と祷りを捧げています。

主は私達の心の内を調べられます。神は私達の忠誠心、聞き従う心を調べられます。
主は彼を調べられ、間違いがなかったことを主張しています。でもダビデの人生には汚点は決した無かったのでしょうか?それらは聖書に書かれています。

  


では何故。主は彼の人生の中での罪、汚点を見いだせなかったのでしょうか?

そうです。彼は悔い改め、手の救いを確信したのです。キリストの十字架の贖いを、彼は既に確信していたのです。彼の行いからではなく、ダビデの時代ににはなかった、キリストの十字架の救いを見てはいませんでしたが、確信していたのです。

ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

4節には『あなたのくちびるの言葉に依った。』と書いてあります。わたし達は人としての考え方、例え。それが善意からの忠告、進言であったとしても、それらの言葉の基準が聖書に依らなくては、真の善意、教えとは言えないのです。

 『神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。詩17:6~9

 私達も日々。神を呼び求めて礼拝し祈り、賛美をします。神は礼拝を通じて賛美の言葉を聞きたいのです。神との関係を深めることが、神ご自身の望みです。ハレルヤ!!神は耳を傾けて聞いて下さるお方です。人の手で造られた偶像の神々とは違い、その耳で聞いて下さるのです。あなたが、神の御名を崇めるときに、御業を見せて下さいます。

この事は『主の祈り。』でも第一に教えておられます。

主の側に身を避ける者を、主の右に立たせてかくまって下さるのです。

あなたが喜んでいるとき。悲しんでいるとき。あなたが傷つけられているとき。
怒っているとき。あなたが、だまされ落し入れられたとき。争っているとき。
あなたが罪を犯しているとき。悔い改めているとき。あなたが落ち込んだとき。
失望しているとき。あなたが苦しみの時。病の時の苦しみの時。あなたの右におられます。

「私は罪を犯しました。あなたの掟は暗闇。罪の仮名では一層清く,輝きます。罪を犯したときには,その心が萎えて衰えます。あっ~ 私は何て事をしたのだろうか・・。貴方との距離が遠くに感いられます。私の犯した罪・過ちのためです。

それでもイエスは、あなたの神です。昼も夜も・・あなたの神です。
あなたを支えておられる神です。あなたの右にいて、救いの手をさしのべています。
少しだけ、罪を犯しているときの渦中の中では、あなたが気がつきにくいだけです。」

『私を、ひとみのように見守り、御翼の影に私を守ってください。私を襲う悪者から。私を取り巻くどん欲な敵から』と書いてあります。詩編17:8~9 

神は片時も離れず、私達を注視しておられる事を信仰によって感謝する事は重要です。 
私達を襲う、どん欲な者とは、神から私達を切り離そうとして多種多様の問題と病をもたらすサタン、悪霊達です。 しかし、そのそそのかしや誘惑に乗ってしまうのは、各自の責任なのです。

色々の問題が来たときに、真っ先に、神を仰がずに神の助けを期待して賛美しないうちに 
心の中が問題や病の苦痛で一杯、不安が先立ちます。それらに心の中が翻弄されてしまいます。 すると神が見えなくなります。 

神に祈っても答えられない。と嘆く方も大勢おられます。 それは、神を見ないで、問題を見て祈るからです。 この時の状況下では、心の中は微妙で複雑ですよ。確かに・・ 

「私達はよくこの様に祈ります。これこれを与えて下さい。これこれを、この様に解決して下さい。」と祈りますが、視点を変えて下さい。

それらは既に、十字架を通して与えられ、御霊によって私達に個人個人に既に与えられているのです。私達に与えられているものを、今更もとめても答えはないと言っても過言ではないです。既に与えられていることは感謝をすればよいのです。

エ!ちょっと待ってと言われる方もおられますね。じゃ何故問題が解決しないのですか?と思われるでしょう。 

17:15節 正しい訴え方をして、御顔を仰ぎみましょう。 

では正しい訴えとは何でしょう。十字架を通して約束された全てを信じて、その通りになるように訴えることです。私達は、問題や病は十字架で解決されているのです。それらを目の前に置いて、自己実現の助けを御霊の助けを祈る事が大切です。 

「問題や病を癒やしてください。」とそれらの問題を山積みの問題として 祈るのではないのです。 マタイ10:8には既に与えられて者として実行するように命じておられます。『 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』


解決された問題として賛美しつつ、十字架の現実を私の人生に実現を下さいと タイムリミットを設けずに祈り求める事で、親子関係=神との関係が構築されることは、神の望みです。

 色々の問題に関しては信仰を働かせて下さい。ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』とも書いてあります。 

これは、パンを作る材料が与えられているのと同じです。麦をひき、小麦粉に変え
パン種を入れて発酵させて焼いてから、私達はパンを口に出来ます。この原動力は信仰です。料理やパン作りを始めるときには、既に心の中でどのようなパンなのか、料理なのかを描き作ってから始めるのです。その結果。あなたは現実に食べられるのと同じです。心に描いたことは霊の世界では実現しているのです。

十字架を通して与えられた麦を、私達の信仰で粉に変えて、キリストの言葉のパン種を混ぜ合わせて、私達の人生で練り合わせ、聖霊の日の釜で焼き上げるのです。信仰と確信が全ての原動力なのです。

また確信しないとは、簡単に言うなら、「十字架で全ての罪が許された、私はあなたの罪を解決した。十字架の血潮で癒やされた。」とイエスが宣言したのにもかかわらず、 
その人が死ぬまで、「私の罪を許してください。問題を・・癒してくださいと」といつも、いつも祈り続け、罪や問題。病の恐怖から逃れないことに似ています。 

現実を見れば、確かに目の前には色々の問題。苦痛があります。けれど賛美を通して、完成された感謝を捧げることが、もっと大切だと思います。 一見。遠回りのようですが、賛美は解決を手にする真実な近道を見いだす解決策です。それが賛美確信です。 
あなたの十字架の全ての癒しの現実を仰いで、神を賛美してください。 

 15節には目覚めるとも書いてあります。主を信じた者は、主の前に目覚めます。それは永遠の国での目覚めです。ハレルヤ!!その目覚めの反対語は、眠るです。

キリストを拒否して亡くなった者は永遠の眠りです。元々。永遠の滅び。地獄は、サタンのために用意された所です。アダムにその約束、救いを契約したのは神ご自身です。

神はこのような永遠の眠り、滅びる人を一人でも亡くしたいと望んでおられます。隣人に福音を語りまししょう。

 あなたの上に、家族友人の上にも祝福が豊かに在りますように。

2014年1月31日金曜日

@ 私をお守りください。 詩編16

神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」 詩編16:1~2


 ダビデも経験したように、私達にも人生において苦難や試練があります。次々と問題が起きてきます。経済的なこと、病気、言われのない誤解、対人関係や多種多様な問題事件等々。上げる切りがないです。

しかし 私達には生ける神 キリストが付いておられます。8節を見るならば、『主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』と書いてあります。

それでも、その実感が湧かないときもあります。神を遠目に見てしまい、神が私達を救い出そうとしているにもかかわらず。傍観者になってしまいます。

オバデア 1:12  『あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。』

何か大変なことが起きても、何か自分のこととして感じられす、遠い存在として神と聖書を見てしまいがちです。

ヤコブ1:22 ~24 『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。御言葉を聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの自分の顔を鏡で見る人のようです。
 自分を眺めてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。』

聖書には素晴らしい救いと約束。癒しの完成も書かれています。遠い世界のことでもなく。あなたの右におられる神イエスが、ご自身の言葉と行動を持って、全ての幸いを保証しておられます。どうぞ、思い巡らして下さい。聖書に書かれていることを思い巡らして事実として受け止め受け入れるのです。感情的に感じる、感覚的になることではないです。

キリストに在る幸いと、他の神々が言う幸いの違いは何でしょう。そこには命が在るか無いかです。キリストには十字架の愛、その命を懸けた愛が詰まっています。ダビデも告白しています。

詩編16:4~8 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。

主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
 私は助言を下さった 主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。


神の言葉と慰めと、励まし。恵みは現実なのです。 そうとは受け取れない、祈っても答えがなかったという方もおられるでしょうか。
答えが来るまでには、神の計画があります。答えが来ないのではなく、神のお心があるだけです。あなたの祈りは天に覚えられていま
す。   


イザヤ62:4~6を見てください。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。

このイザヤの言葉をあなたの人生に適用しようではありませんか。
主が答えられるときまで、見張りを立てましょう。祈り継ぐ決心があれば、あなたの願いの答えを見る事が出来ます。
あなたの身の上に起こることを想像(イメージ)し続けて、諦めないで下さい。想像は新しい夢を運び、事実を神によって創造されるのです。信じた、告白したとおりになるのです。

ダビデが確信したように、よみに下ることがない永遠の命が、私達には与えられています。復活するのです。
詩編16:10~11

 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

イエスの復活を、ダビデはここで預言しているのです。

使徒2:31~32 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です

私達には、他の神々が語っていない、復活があります。 究極の癒しです。 この日本にも、アフリカからのニュースが伝わってきています。 死人がよみがえったと言うニュースです。13~15年前に、ケニアのトーマス牧師です。 

最近では、ジョセファット・カジマ牧師です。信じる者の力を見せて頂いた気がします。 これらの証しは、主イエスにあって、私達のものです。死人の癒しが在るならば、現在。生きているあなたの癒しは当然主に在って癒やされます。 主の御名が崇められますように。

 死人のよみがえりを観たことが無いと・・信じないという方もいます。見ないと信じないないトマスと同じ考え方になります。

強いて言えば、聖書全体も見ないと信じられなくなる気がします。この点が信仰の強さでも在り 弱さです。

見たからでも無く、感情や感覚で聖書を見るのではなく、聖書が神の言葉として、書かれておる事を真実にとして受け止めるのです。 
神を見ていても・・罪を犯したユダヤ人の様子が出エジプト記に書かれています。 神の声を聞いていたダビデも・・罪を犯します。当然私たちも素晴らしい奇跡を見聞きしていたとしても罪を犯します。 へりくだり謙虚にならないといけないですね。


主に在る、その御前にある喜びは、私達のものなのです。16;11

2014年1月29日水曜日

@ 願いを伝え,知ってください。

話さないと伝わらない。

理解をしてもらいたいと情熱が無いと話さないし伝わらない。

父なる神は、全能であっても、神は会話と交わることからの人格的な交流をを好まれる。

神は時々,無言になるのは,私たち人間も同じだね。

でも、時を隔てても,神の私たちの思いを知っていてくださる。

時が来たら,実現してくださる。

時にはヤコブのように,面と向かって神と相撲を取るかのように,

対決しないといけないときもある。

神は私たちを見捨てない。でも黙っていても駄目。

同じように 私たち人間側も,神を見捨てない。諦めない。

忍耐と無言の時期が,愛を確かめ合う,大事なときが流れている。

アブラハムに、神が約束して、その子イサクを得るまでの25年間


ノアが箱船に入ってからも、7日間は,雨が降らなかった。

ノアが疑っても可笑しくない時間が流れていた。

疑っても不思議では無い。悪くは無い。神を信じ無いとことが問題だ。

神にそれを話さない,感謝しない事が問題だ。それは罪を犯すことにつながる。

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何も思い煩わないで,あらゆる場合に、感謝を持って捧げる祈りと願いによって,

あなた方の願いを神に知って頂きなさい。ピリピ4:6

2014年1月28日火曜日

@ 誰が、あなたの聖なる山に住むのでしょう.詩編15より


主よ。誰があなたの幕屋に宿るのでしょうか。
詩編15:1

 ダビデは賛歌としてこの詩篇を詠いました。

 彼ダビデは神の幕屋に誰が宿れるのかを聞いています。聖なる山、神殿の建つ山に住めるかを聞いています。普通の常識を越えて・・当時は幕屋、神殿は聖域でした。大祭司が年に一度だけ、それも一時だけ入る事だけが許される聖域でした。その所で間違った行動をするならば、たちどころに神の臨在で死んでしまうほどの聖域でした。

 でもダビデは、そんな聖域に住みたい宿りたいと願ったのです。本来は不可能な場所でも、神に近づきたい願いがあったからです。神に近づき臨在に満たされるなら。 交わり続けらることが、彼の願いでした。神の臨在に触れられて死を覚悟してまでも・・例え不可能であったとしても・・ 彼の熱心はそれほどに強かった告白です。

 私達は、彼ダビデほどの熱心を持って、神を礼拝するために近づこうとしているでしょうか?何か自分の願い達成だけのために、神に近づいていないだろうか。 神が神であるが為に、礼拝するためだけに、飢え乾きを持って神に近きましょう。

今日の私たちは、イエス様の血によって、自由に聖所に入る事が出来る万人祭司なのです。その価値を再認識しましょう。ダビデは願っても出来なかったことを、私達はイエスの血を通しての身分を頂きました。この素晴らしい地位を認識し、イエス様の血潮の価値を痛感しましょう。

その価値を身分を守り得る資格も書いてあります。

正しく歩み、義を行い、心で真実を語る者。と書かれています。クリスチャンとして、襟をただしましょう。言葉を持って人をそしらす、友人に悪を行わないと書いてあります。 隣人の非難を口にしない人とも書いてあります。

 今はネット社会です。私がある検索で調べていると、クリスチャンが、クリスチャンを非難しているしているサイトに突き当たりました。とても悲しい気持ちになりました。ネットは書いた本人が削除しない限り、いつまでも残ります。その非難に対しても同調して賛成意見コメントを述べている者もクリスチャンでした。臭い物に蓋をせよとは、私は申しません。

事件を侵した者は、国の法律で裁かれます。私達もそのような似た事件を、いつ犯すとも限らない弱い存在です。ネットで・・またその他のメディア媒介で断罪する者、同調して非難する者の心は晴れるでしょう。未信者が偶然。そのサイトを見たらどのように思うのでしょうか。 事件性のないことで、教理に関して、信仰姿勢に対しても非難と断裁しているサイトも悲しくなりました。非難さえ避け、協調し過ぎなければ、三位一体の神なのです。何処かで一致点が見つかるのです。




それよりも、神の国が落とし入れられ、傷つく気がします。悲しむのは十字架にかかってまでも、私達のためにとりなして祈って下さった、イエス様ではないでしょうか?神の国の法律は許しと、その罪を犯した、まちがった人のために、とりなして祷りを捧げることなのです。 非難と断罪ではないのです。断罪は、神のなさる事です。私達は罪からの回復を祝して祈り願う者でありたいです。

 神は隣人の為にとりなして祈って・・万人祭司として人々を愛する事、仕える事を願っておられます。この詩編15には、他にも神殿、教会に住む者、集う者への警告でも在り、神の願いでもあります。キリストの体を通して、教会に、神の神殿に住んで欲しいと願っておられる神の願いと条件です。 私達が聖霊の宮として、神が住める体に変えられてゆきましょう。ダビデの熱心を追いながら・・

2014年1月13日月曜日

@ 悩む人を踏みにじらない方とは・・詩編12

悩む人を踏みにじらない方とは・・ 詩編12

主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今。私は立ち上がる。
わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」主の御言葉は混じりけのない言葉。
土の炉で七回もためされ純化された銀 詩編12:5~6

 東北関東震災では、多くの人々が避難所での過酷な生活に追われています。
彼らの嘆きと祈りは、必ず神に届くと信じて祈りつつ。

 さて混じりけのない金銀の輝きを知っていますか?それはクールな美しい輝きです。
銀の元になる物には、不純物が多い鉱石です。そのことを暗示させるかのように、ダビデは、彼にへつらう人のことを冒頭に語っています。聖徒との純粋さではなく、偽りのへつらいで彼に近づいては裏切りました。 彼もそのことで嘆いています。その救いを神に尋ね求めました。2節

神の言葉は純粋な銀のようで、輝いていることもダビデは知っていました。彼はその素晴らしさを賛美しています。主なる神も、その賛美に応答して立ち上がって救い出されると言われました。それも単に救うだけではなく、私達の願うように、求めに応じると言われました。「ハレルヤ!あなたの願いが、今日。聞かれました。」と私達はいつも聞きます。
また祈った後には、「主よ。信じます」と答えます。




 あなたは盲人のために祈ったら、その答えが来て、その盲人のめが見えるようになると信じ続けますか?その答えを見るまで・・「主の愛するあの人を救って下さい。」と祈ったら必ず、その祈った方が救われる日が来ることを信じ続けますか? 即答、直ぐに祷りの答えがないときに、あなたは諦めて・・二心にはなりませんか? 何処かに、神からの即答がない理由を、あなたの心の中に見つけてしまいませんか?

そうです。確かに、信じ続けることは困難です。即答される時もあれば、1年。2年神からの答えがないです。いいえ!10年、20年と答えがなかったら・・二心になってゆきませんか。 「信じると言ったけれど・・、私は信仰が弱い人間だから・・神は私を忘れておられるな~。そうだ! 答えなんか元々無かったんだ!」

『唇は我々の物だ。』 4節 不平は二心を生み出します。信じようが、信じまいが、我々の勝手なんだと・・聖書は祷り求めるなら答えが来る、信じたとおりになると語ります。 『私より、素晴らしく大きな業をする。』とイエス様が言いました。 

信じ続けて何時間も、何日も・・祈り続けて、死人を生き返らさせた牧師がいます。 彼は諦めなかったのです。彼の名は、トーマス・ムティー牧師(ケニア) また、ジョセファット・ガジマ牧師。
 タンザニアがおられる事も事実です。 普通なら「死人の蘇り?これは出来ないと先に思い込んでしまいす。」 自分の信仰の力を見てしまうからです。(この件では異端だと反論を展開している方も・・ネット上にお見かけしています。けれど神に,信仰には無限で出来ない事は無いのです。小さな信仰でさえも,山を動かす事が出来ると聖書には書いてあります。)


 神は私達の土の器を製錬なさいます。私達の素質を見いだして、まるで鉱石から製錬して銀を取り出すかのように。聖霊の宮へと導かれます。貧しい心を、金の輝きに代えてくださいます。
私達の輝きを増して磨いてくださる、聖書の言葉によって・・

 
神の言葉は感情や人の思いではうごきません。 
聖書の御言葉には、神の意志が書かれています。 その神は言われます。「私は立ち上がる。私は彼を、その求める救いに入れよう。」と言われます。 私達の心の中では二心ではなく、神を信じ続けましょう。 御言葉は輝く銀のように純粋です。その純粋さの故に、祷りには答えてくださると確信しましょう。

 7歳の女の子が、始めてキリストの福音を聞きました。彼女が信じて、洗礼を受けたのは、なんと80年後でした。

7歳の女の子に、福音を届けた最初の方の祈りが80年後に聞かれたのです。当然ながら、その方は既に亡くなっておられましたが、主なる神はその時。7歳の女の子が、神と出合っても素直に信じられない環境から、7歳の女の子が、神キリストを信じられる環境の時を待ち続けて、最初に彼女に福音を語った人の祷りに答えを出したのでした。

さて女の子とは、私の母でした。母が八七歳の時に洗礼を受けた日に、私は始めて、母の口から聞き、驚きました。仏教を信じていた母には、キリストからは、ほど遠いことを知っていたからです。

まして母は痴呆症にもなり全ての記憶が2年間。全く失われていました。神は奇跡を起こされ、記憶を回復させてから、キリストを信じるようになさいました。母が7歳の頃に福音を聞いてから、途中には戦争もありました。80年の月日が流れ、最初に母が救われるように祈った方の祈りに答えを出したのです。

神の言葉は純銀以上の輝きがあります。 
世界を純化 精錬する唯一なもの、それは既に持っておられる、あなたへの神の言葉、聖書の言葉なのです。

 神はへりくだる者の心を無駄にははなさらないです。

2013年12月4日水曜日

心の歌。命のパン 喜びの讃美の一歩

私の心に残る歌。聖書の詩編から+


 別のチャンネルで、一時。詩編のブログを書いていました。
新たな気持ちで、再開いたします。

途中までは,前記の記事と一部の部分では重複しますが,又再度お読み下さいましたら幸いです。
宜しく お願いいたします。 神からの祝福が貴方に注がれますように祈りながら・・



 『時がくると実がなり、その葉は枯れない。』詩編1:3より





 桜は私たち日本人にとっては特別な花ですね。とても短い期間。でも心に残ります。
花が散ること。それは次のステップ 実がなるためには花は散らないと行けないのです。

聖書から見てみれば、花が咲き散ることは次のステップである、豊かな実を結ぶための準備です。主イエス様の言葉の中には、
『私は葡萄の木で、あなた方は枝です。人が私のとどまり、私のもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くのみを結びます。
私を離れては、あなたがたは何もする事が出来ないからです。誰でも、私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てらて、枯れます。』 ヨハネ15:5~6 

 植物の植物の成長には水は欠かせません。詩編1章にも、同じ考えが書かれています。水路の畔に植物が植えられて成長し、豊かな実を結びますと語られています。主エスは、私たちの霊的な命の水です。イエス様の命の水の畔(水路とは、人の手による水の流れ=聖書)に、人生の根を張りましょう。イエス様は約束をしてくださっています。『流れの畔に根を下ろすなら、あなたのなすところは、みな栄える。』と約束をなさっています。人生に思わず困難が来ます。誘惑もあります。まるで、私たちを燃え尽くすかのように、次々と問題や誘惑がやってきても、イエス様と言う川の畔に、根を張った信仰を保ち続けるなら、イエス様から、御言葉という水を吸い上げることが出来ます。 しぼまない、かれない美しい実を結ぶ環境は整えられているのです。

豊かな人生の実を結べるのは、イエス・キリストにつながっていてこそ、豊かである、真実の実を結ぶことが出来ます。 この世には、積極思考という発想もあります。それはそれでよいことです。何故なら、多くは聖書のルールが用いられています。クリスチャンでない方が大いに用いていますけれど・・クリスチャンでなくても成果が出るのは、聖書はいかに真実の言葉を語っているかが分かります。けれど問題は、一般的な積極思考だけですと、その中には、聖書の思想も多く取り入れられています。問題はその中にはキリストの言葉の命がないのです。

 あなたの唇には、神の言葉の命が移されていますか?聖書は薦めています。神の言葉を夜も昼も喜び口ずさみましょう。 神の言葉の命が、貴方に移されます。 あなたの人生の根を、人から神に移しましょう。神の教えを「口ずさみ、思い巡らしましょう。」 キリスト教会に行っているからだけではなく、キリストの言葉の中に、御心の中にとどまらなくては、祈りも聞かれないし、本当の意味での豊かな実が結べないです。ヨハネ17:7

  キリストにある、とどまって得られた、その喜びを人々にも分け与えましょう。福音を伝えましょう。 神は、私たちが豊かになることを望んでおられます。一方的には、神から恵みは来ません。私たちが信仰と決心と希望と行動を求められています。 それは、私たちと神様のの共同作業と言っても良いでしょう。 神と共に
働き、恵みと成長する事を、実を結ぶ事を、神は望まれています。

根である私たち自身が、水を求めて吸い上げるという作業が、私たちに課せられています。 水路は作物の成長の為に、自分から掘り進み、水路を作り自分の作物の豊かに実ることを願います。水は命の水であるキリストから流れます。水路は、キリストの十字架から流れる力と助けによって、あなたの信仰によって、作り上げて完成されます。