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2014年1月31日金曜日

@ 私をお守りください。 詩編16

神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」 詩編16:1~2


 ダビデも経験したように、私達にも人生において苦難や試練があります。次々と問題が起きてきます。経済的なこと、病気、言われのない誤解、対人関係や多種多様な問題事件等々。上げる切りがないです。

しかし 私達には生ける神 キリストが付いておられます。8節を見るならば、『主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』と書いてあります。

それでも、その実感が湧かないときもあります。神を遠目に見てしまい、神が私達を救い出そうとしているにもかかわらず。傍観者になってしまいます。

オバデア 1:12  『あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。』

何か大変なことが起きても、何か自分のこととして感じられす、遠い存在として神と聖書を見てしまいがちです。

ヤコブ1:22 ~24 『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。御言葉を聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの自分の顔を鏡で見る人のようです。
 自分を眺めてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。』

聖書には素晴らしい救いと約束。癒しの完成も書かれています。遠い世界のことでもなく。あなたの右におられる神イエスが、ご自身の言葉と行動を持って、全ての幸いを保証しておられます。どうぞ、思い巡らして下さい。聖書に書かれていることを思い巡らして事実として受け止め受け入れるのです。感情的に感じる、感覚的になることではないです。

キリストに在る幸いと、他の神々が言う幸いの違いは何でしょう。そこには命が在るか無いかです。キリストには十字架の愛、その命を懸けた愛が詰まっています。ダビデも告白しています。

詩編16:4~8 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。

主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
 私は助言を下さった 主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。


神の言葉と慰めと、励まし。恵みは現実なのです。 そうとは受け取れない、祈っても答えがなかったという方もおられるでしょうか。
答えが来るまでには、神の計画があります。答えが来ないのではなく、神のお心があるだけです。あなたの祈りは天に覚えられていま
す。   


イザヤ62:4~6を見てください。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。

このイザヤの言葉をあなたの人生に適用しようではありませんか。
主が答えられるときまで、見張りを立てましょう。祈り継ぐ決心があれば、あなたの願いの答えを見る事が出来ます。
あなたの身の上に起こることを想像(イメージ)し続けて、諦めないで下さい。想像は新しい夢を運び、事実を神によって創造されるのです。信じた、告白したとおりになるのです。

ダビデが確信したように、よみに下ることがない永遠の命が、私達には与えられています。復活するのです。
詩編16:10~11

 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

イエスの復活を、ダビデはここで預言しているのです。

使徒2:31~32 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です

私達には、他の神々が語っていない、復活があります。 究極の癒しです。 この日本にも、アフリカからのニュースが伝わってきています。 死人がよみがえったと言うニュースです。13~15年前に、ケニアのトーマス牧師です。 

最近では、ジョセファット・カジマ牧師です。信じる者の力を見せて頂いた気がします。 これらの証しは、主イエスにあって、私達のものです。死人の癒しが在るならば、現在。生きているあなたの癒しは当然主に在って癒やされます。 主の御名が崇められますように。

 死人のよみがえりを観たことが無いと・・信じないという方もいます。見ないと信じないないトマスと同じ考え方になります。

強いて言えば、聖書全体も見ないと信じられなくなる気がします。この点が信仰の強さでも在り 弱さです。

見たからでも無く、感情や感覚で聖書を見るのではなく、聖書が神の言葉として、書かれておる事を真実にとして受け止めるのです。 
神を見ていても・・罪を犯したユダヤ人の様子が出エジプト記に書かれています。 神の声を聞いていたダビデも・・罪を犯します。当然私たちも素晴らしい奇跡を見聞きしていたとしても罪を犯します。 へりくだり謙虚にならないといけないですね。


主に在る、その御前にある喜びは、私達のものなのです。16;11

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