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2014年4月23日水曜日
@ 聖書 詩編 24より
この詩編は,大きく2つの文節があります。
主の主権を認め賛美する節です。次に主の栄光が私の中に降りてくる喜びの節です。
1節には、『地とそれに、満ちているもの、世界とその中に住み者は主の者である。」と宣言しています。
この世界は主によって築きあげられたと告白し認めています。
世界のもの,すべては主によって創造されてと告白して,私たちは種に属している者だと語っています。特に主を礼拝者、救われた者は主によって新しく作られた者です。
ヨハネ 3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
Ⅰペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
Ⅰペテロ 1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
主から生まれた者は、主が養います。前記の23編のように羊飼いとして私たちを養うのです。 養われるためには、全権をその養う方・・神様に委ねなくてはいけません。
「門よ。おまえたちの頭をあげよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の主が入って来られる。」7節から大きな流れの節が動きます。
神はただ御座に臨在をしておられるだけでは無く、私たちを静観しているのでも無く,
私たちの心と魂の中に下って,、その処。私たちの霊の中を住まいをして下さるのです。
私たちも住まいとなさって下さいと、心と魂を父なる神・キリスト・聖霊様に、心を明け渡して、主によって支配されることを喜びとしなければ意味が無いですね。
ダビデの賛美ですが、神がシオンを住まいとされる前にはなにがあったのか?
それは敵に契約の箱が盗まれていたのです。神はその敵を支配して困惑させ、戦利品であった契約の箱を,イスラエルに返したのです。ダビデはその契約の箱がシオンの丘に戻ってきたときに、この24編を歌いました。
契約の箱のあるべき処は、主を礼拝するあなたの心の中に留まらなければなりません。
主の契約、救いがあるところには賛美があり、主はその賛美を住
まいとされます。そして恵みとしてあなたを救い養います。
あなたの問題の前でも酒宴を開く余裕を与えるのです。あなたが、主に支配されることが第一の条件となります。
神の恵みと賛美があなたの上に豊かにありますようにと祈ります。
24編のを生活の中で生かす。
門が開けられ、神が入ってくるところは,あなたの心の中です。
『門よ。頭を上げよ。』とダビデは宣言しています。7節 ダビデはいかなる場合でも主に使える心と常に神を喜び 勝利宣言告白する心をを持ち続けました。
契約の箱・・それは現代では聖書にあたります。
主の臨在を絶えず喜んでいました。喜びの賛美があるところでは主が勝利をなさいます。あなたの不安は信仰不安につながりますし、あなたの敗北にもつながります。
不安は主を退けるからですね。
世の中には傷つくことは確かに多いです。あなたがたたかれることもあります。疲れることもあります。しかし、あなたの心に住まわれる主キリストの臨在に気がつくならば、万軍の主、勝利の力の源であるキリストに信頼を重ねていくなら,神はあなたの頃に住んで下さり,あなたに勝利をもたらします。そして、あなたは神からの祝福を受けるのです。
病になっても不安に打ち勝ち、既にキリストの十字架。購いが、あなたの打たれた傷、病も治して下さった!過去の病として感謝し癒やしを受ける心構えも重要です。
癒やしだけでは無く、次々と起きてくる各種の生活の中、仕事。事業のこと・・・問題も解決されてと感謝讃美始めると 後から現実=解決がやって来ます。何故なら、神は全てに勝利者。私たちをその勝利者として導くのです。 不安は捨てましょう。
日々コツコツと日々の生活と讃美を煉瓦を積み上げるかのように・・折に触れて ベストな設計プランの変更さえも語りかけて下さいます。神の声を聞くためには、あなたから神に近づく事が第一条件です。
想像を超えた助け、アイデアなど色々の方法で、神様は私たちの手を引き上げて下さいます。
神の声を聞く方法の第一は、私たちが神に近づく事です。
リンク 神の声を聞く
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今一度。 詩編24を見直して下さい。
詩
24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。
24:2 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
24:3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
24:5 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
24:6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 セラ
24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。 セラ
2014年3月28日金曜日
@聖書の詩編22章より
詩編 22編 前編。
「我が神、我が神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠くて離れて私をお救いにならないのですか。」 1~2節
なんと22編の冒頭から、ダビデの嘆きから始まっています。
彼は率直に嘆きの言葉を神に訴えています。それは絶えず神と差し向かえになっているからの言葉です。
たしかに、色々の苦難、悲しみがあります。人と人の小競り合いや争いに巻き込まれることも辛いです。
けれど、もっとも辛いこと悲しいことは、神からの回答がもらえないことです。ダビデもこの問題に直面したのです。
私たちも、同様に神様に向かって叫びますが、ダビデに比べて神の応答が少ないと不平を漏らす方もいます。
神の見方と人の思考の違いが時々あります。人は自分自身に関する問題を中心に考えて祈ります。あなたは目先の問題ばかり追われて、その回答を急いでほしいと願っていませんか?
それとも信仰が無いからとあきらめてしまいませんか?
願って祈っても、御利益が無いからと、キリストから離れ、他の神々に行こうと、あなたの心の中をよぎってはいませんか?
新約聖書 ヤコブ 4:8 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」
ダビデの姿を見るならば、この苦難なのかでも、彼は神への崇光と信頼を表明しています。2~3節 我が神、昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエル<私たち神の国の住人>の賛美を住まいとしておられます。」
苦難に出会うときに、私たちは不平、不満を口にします。けれどもダビデは言いました。
神の住まいは、神の賛美の中に住んでおられると・・どうぞ振り返って、神によって与えられた恵みや平安。祝福を思い起こしては、神を賛美して下さい。
そんなことは無い今まで、そんな良い思いをしたことがなと言わないで下さいね。
主なる神を否定するなら、ますますあなたにのりの答えは、遅くなります。
ダビデは素直に祈り、その答え神の応答が送れていること嘆きながらも、神様の懐に入って言っています。
ダビデの告白は、「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房により、貴方に頼まさせた方。生まれる前から、
わたしはあなたにゆだねられました。母の体内にいたときから、
あなたは私の神です。どうか、遠くに離れないで下さい。苦しみが近づいており、助ける物がいないからです。」
答えの無い苦しみを告白しながら、より深く神に近づいて、神の存在と、自分との関わりの深さをを認めているのです。
神を恐れ敬いつつ、神に近づいているのです。神が直ぐに答えないのも、神の大きな計画と私たちがその経験を通して成長を願っておられるからです。
ダビデが経験した事を振り返るなら。その信仰の成長を見ることが出来ます。その神への賛美を見れば、彼の賛美の中に、キリストが住んで下さっていたことを見ることが出来ます。
このダビデの告白体験は、キリストご自身が十字架にかかる前にも経験した祈りの予票でもあります。、キリストは、ゲセマネの園で、同様な祈りをなさいました。
それは私たちを救いに導く苦痛の祈りでした。
「我が神、我が神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠くて離れて私をお救いにならないのですか。」 1~2節
なんと22編の冒頭から、ダビデの嘆きから始まっています。
彼は率直に嘆きの言葉を神に訴えています。それは絶えず神と差し向かえになっているからの言葉です。
たしかに、色々の苦難、悲しみがあります。人と人の小競り合いや争いに巻き込まれることも辛いです。
けれど、もっとも辛いこと悲しいことは、神からの回答がもらえないことです。ダビデもこの問題に直面したのです。
私たちも、同様に神様に向かって叫びますが、ダビデに比べて神の応答が少ないと不平を漏らす方もいます。
神の見方と人の思考の違いが時々あります。人は自分自身に関する問題を中心に考えて祈ります。あなたは目先の問題ばかり追われて、その回答を急いでほしいと願っていませんか?
それとも信仰が無いからとあきらめてしまいませんか?
願って祈っても、御利益が無いからと、キリストから離れ、他の神々に行こうと、あなたの心の中をよぎってはいませんか?
新約聖書 ヤコブ 4:8 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」
ダビデの姿を見るならば、この苦難なのかでも、彼は神への崇光と信頼を表明しています。2~3節 我が神、昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエル<私たち神の国の住人>の賛美を住まいとしておられます。」
苦難に出会うときに、私たちは不平、不満を口にします。けれどもダビデは言いました。
神の住まいは、神の賛美の中に住んでおられると・・どうぞ振り返って、神によって与えられた恵みや平安。祝福を思い起こしては、神を賛美して下さい。
そんなことは無い今まで、そんな良い思いをしたことがなと言わないで下さいね。
主なる神を否定するなら、ますますあなたにのりの答えは、遅くなります。
ダビデは素直に祈り、その答え神の応答が送れていること嘆きながらも、神様の懐に入って言っています。
ダビデの告白は、「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房により、貴方に頼まさせた方。生まれる前から、
わたしはあなたにゆだねられました。母の体内にいたときから、
あなたは私の神です。どうか、遠くに離れないで下さい。苦しみが近づいており、助ける物がいないからです。」
答えの無い苦しみを告白しながら、より深く神に近づいて、神の存在と、自分との関わりの深さをを認めているのです。
神を恐れ敬いつつ、神に近づいているのです。神が直ぐに答えないのも、神の大きな計画と私たちがその経験を通して成長を願っておられるからです。
ダビデが経験した事を振り返るなら。その信仰の成長を見ることが出来ます。その神への賛美を見れば、彼の賛美の中に、キリストが住んで下さっていたことを見ることが出来ます。
このダビデの告白体験は、キリストご自身が十字架にかかる前にも経験した祈りの予票でもあります。、キリストは、ゲセマネの園で、同様な祈りをなさいました。
それは私たちを救いに導く苦痛の祈りでした。
ラベル:
とりなし,
祈り,
告白、福音、愛される。神の子、,
遅れ
2014年3月19日水曜日
@ 詩編21より 喜びは・・
21:1~4 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。 セラ
あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。
彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。
21編は、とりなしの賛美です。
祭司や会衆が、王であるダビデに、生ける神が,ダビデに働いておられる事の喜びと感謝賛美を捧げています。
神がおられ、ダビデを支えておられる事。王を支えるので、国民である会衆からの感謝の声が、
キリストへの賛美なっています。
私達は、キリストの十字架の贖いによって、神の国の民となっています。
私達はキリストに栄光が増し加わるように祈り、かつ、その栄光が実存していることを
感謝しなくてはいけません。
キリストの冠は栄光の純金です。私達は永遠の命を求めました。そして、与えられています。王であるキリストに願う願いは、決して退けられません。
時々 祈ったけれど答えがないからと失望なさる方もおられます。
答えがないのではなく、既に王であるキリストによって与えられているからです。
では何故でしょう?探し方が悪いと見つからないのに似ています。
沢山の祈りの答えが既に、私達の周りに来ています。 探し方ら悪と見つからないのです。
リアリティーを捜しましょう。それは信仰によって得られる、捜せるのです。助けてある聖霊様と
ご一緒に捜しましょう。 リアリティーを待つ間に大切な事があります。
あなたの信仰の成長です。また賜物として活用できる段階的な成長です。
ダビデに油注がれてから、サウルのところに連れてこられました。しかし、ダビデは直ぐに王になったのではないです。試練苦難、死の谷を歩みました。
でも、既に神からの油は注がれていました。
またダビデも色々の経験を通して、神への信頼を育ててゆきました。
神はアダムを創られました。
アダムは、私達の創造主の期待から外れたことをしました。けれど、神はそのアダムに救いの道を備えて下さいました。 アブラハム、ダビデ、キリストを通してその計画は実行されました。
私達も母の胎の中で創られました。救いの約束されて、私達は生まれました。
しかし、私達一人一人が,その救いの約束に対しての告白して信仰を その救いを受け入れなくては確定されないのです。
主キリストを、私達が信じる事は、キリストの栄光となります。
だが、主の栄光を奪おうとして、霊的な戦いはあります。その矛先は、信じた私達に向けられています。
敵とはサタンです。9節には、敵を徹底的に、飲み尽くすと書いてあります。
気を緩めることなく、神に賛美と信頼を重ねましょう。私達の捜し物、現実性を奪い隠すからです。
敵の一番の方法は、私達に失望感を与えてダメージを加えるのです。
信仰の人。ヨブも試されました。 妻からの神を呪って見たらと唆されて・・
私達も試されないことを祈るべきです。と言って 試されることをおそれてはいけません。
詩編21:6~7
あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。
私達は、王なるキリストに支えられて、信頼を学び知り、答えを探し出して、喜びが実現するのです。
詩編21:13
主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。
私達の祈り願い、捜し物は、主の栄光が崇められるためにあるのです。
捜し物、祈りの答えが優先であってはいけないのです。 答えが願いが優先であるならば、答えが無いその間。失望感がつのるでしょう。 それでも主をい求める者には、 神が良いとされた時に、神の手からの喜びを得るのです。
詩編21:6
『 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼(王につながる私達)を楽しませてくださいます。』
2014年3月15日土曜日
@ 聖書 詩編 20章より
詩編20:6~9
今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。
主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。
この詩編は多くのとりなしの言葉。祈りで始まっています。
詩編20:2
主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように
神はその住まいとされた聖所に住まい、民のためにお答え下さいと、祭司であり王であるダビデがとりなしの祈りをしています。
私達は、主の答えが確実であることを再確認しましょう。また隣人の願いを知り、答えが与えられるように乗りましょう。
祈りはその方策ではありません。現代には、沢山のHOW TOが在ります。よりよい結果を得るためのガイド本です。 信仰はガイド本ではないです。 時々。聖書の黄金律を取り上げて,成功の秘訣を語る方もおられることも事実ですけれど・・
ただ、神に信頼に、信頼を重ね手、礼拝し賛美し崇めることです。
祈りは十字架から、既に来ています。与えられています。
「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」
この世の考え方からですと、聖書、神の考え方は、逆の発想になります。問題の解決をさておいて、祷りと賛美を捧げる。と聖書は教えるからです。
それは、油注がれた者を救われるからです。 王であるダビデを指し、また王の王であるキリストを指してもいます。しかし、それでけではないのです。
私達、主を信じる者は、全て主によって、油注がれた者です。ハレルヤ。
Ⅱコリント1:21 『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。』と聖書は語っています。
同じく、Ⅰヨハ2:20 『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』
Ⅰヨハ 2:27 にも、私達に注がれた油のことが書いてあります。
『あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。』
そのそがれた油には、あなたに力不足はないのです。 実感がないと思う方もいますか?それは信仰によって、既に受け取っているのです。 あなたの感情ではないのです。
十字架で流された血潮によって与えられているのです。
各自の信仰によって、聖霊の油を沸騰させましょう。沸騰させる燃料は、あなたの情熱の火、信仰の火によって燃やしましょう。
願い続けるなら 『主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。6節』
決して不足することなく、あふれ答えられるのです。
今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。
主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。
この詩編は多くのとりなしの言葉。祈りで始まっています。
詩編20:2
主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように
神はその住まいとされた聖所に住まい、民のためにお答え下さいと、祭司であり王であるダビデがとりなしの祈りをしています。
私達は、主の答えが確実であることを再確認しましょう。また隣人の願いを知り、答えが与えられるように乗りましょう。
祈りはその方策ではありません。現代には、沢山のHOW TOが在ります。よりよい結果を得るためのガイド本です。 信仰はガイド本ではないです。 時々。聖書の黄金律を取り上げて,成功の秘訣を語る方もおられることも事実ですけれど・・
ただ、神に信頼に、信頼を重ね手、礼拝し賛美し崇めることです。
祈りは十字架から、既に来ています。与えられています。
「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」
この世の考え方からですと、聖書、神の考え方は、逆の発想になります。問題の解決をさておいて、祷りと賛美を捧げる。と聖書は教えるからです。
それは、油注がれた者を救われるからです。 王であるダビデを指し、また王の王であるキリストを指してもいます。しかし、それでけではないのです。
私達、主を信じる者は、全て主によって、油注がれた者です。ハレルヤ。
Ⅱコリント1:21 『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。』と聖書は語っています。
同じく、Ⅰヨハ2:20 『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』
Ⅰヨハ 2:27 にも、私達に注がれた油のことが書いてあります。
『あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。』
そのそがれた油には、あなたに力不足はないのです。 実感がないと思う方もいますか?それは信仰によって、既に受け取っているのです。 あなたの感情ではないのです。
十字架で流された血潮によって与えられているのです。
各自の信仰によって、聖霊の油を沸騰させましょう。沸騰させる燃料は、あなたの情熱の火、信仰の火によって燃やしましょう。
願い続けるなら 『主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。6節』
決して不足することなく、あふれ答えられるのです。
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