詩編 7編
私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫る
すべてのものから、私を救って下さい。1節
主よ。私の義と、私にある誠実とに従って、私を弁護して下さい。8節
差し迫る敵からの攻撃に、ダビデは、第一に神の前に出ます。命の危険がありました。それらを避ける手立て、方法などをを考える前に、神の目の前に出て祈りました。私たちにも、全ての者が差し迫る問題を持って、あなたを責めてくる事はないですか?神が解決して下さるために、神との信頼を深めて、御言葉を心に蓄えましょう。御心を行う者となりましょう。御言葉をを行う者の祈りには、神はお答えになるのです。何でも求めるなら、既に解決があるのです。 御言葉にとどまる者には答えがあります。ヨハネ14:14~15。ヨハネ15:6 ヨハネ16:34 求めるものは何でも・・ ここで勘違いしないで下さい。私たちが願い求め、与えられるものとは、質的な事柄、問題の解決より優先されることがあります。 それは聖霊を求める事です。神との深い交わりと栄光を求める事.御言葉に留まるなら答えがあります。 第一にも求める事は神の国の栄光とその義です。日常の問題解決のことだけ、あなたの必要だけにとらわれてはいけないです。マタイ6:33 私たちの問題.求めは、神は既にご存知です。神は、私たちに交わりと会話。祈りと賛美を第一求めておられます。
ダビデは身の潔白によって、弁護を願っています。ダビデはあえて自分の義と潔白のを神の前に提示させています。絶たい的な潔白はダビデにはあるのでしょうか。聖なる神の御前には、誰一人として義とはされません。自分の誠実さを誰一人として主張は出来ません。ダビデも一人の罪人です。けれど、人間の間では、無実の罪に対しては潔白は明らかにしなくてはならないです。それらを証明するには、先入観とか多数の問題も出てきます。 濡れ衣とか、白が黒が代わるようなときには、神の助けが必要となります。
あなた自身の生活の問題からも、信仰上の問題からも、クリスチャンとしてとして戦う必要があるならば、神の介入を願いましょう.それは神の義と国にが脅かされるときだからです。
時にはあなたの使命に対しても誤解もあるでしょう。あなたの献身的な働きへの誤解や不理解もあるでしょう。その時には、神の導きと裁きと願いましょう.この裁きは、相互的です。相手先の事ばかりの裁きではなく、私たち自身も過ちがあるなら見直す機会です。その時に、人々の裁きがどうであろうとも、神は私たちの公正な弁護者であられます。
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