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2013年12月9日月曜日

神は災いを喜ばない

詩編 5;4
   あなたは悪を喜ぶ神ではなく、災いは、あなたと共に住まないからです。

 ダビデは神に祈り訴えています。私たちの言うこと・・祈りを聞いて下さる方であることを知っています。祈りは時にはうめきのように、苦しく叫ぶ時もあります。 必ず聞きとってっくださる神である事を、祈りの対象者がどのようなお方かを知っていました。(2節) 王の王に祈っているのです。うめき・・時には妊婦が子供を生み出す時に叫ぶ声のようです。

 エリヤは雨を降らす祈りと時に、7度、膝をつきました。その体勢は、まるで妊婦の産みの苦しみを上げる時の体勢を取って自分の顔を膝の間に埋めて祈りました。Ⅰ列王記18:42

 朝明けに、私は祈りの備えをし、見張りをします。 (3) 私たちの祈りは主との交わりです。会話です。一日の初めに神を求めて、祈りの準備をしなくてはいけないです。見張りとは自分の心を見張らることです。私たちは、案外と直ぐにくじける弱い存在です。 誰かに会いに行くまえに、プランを立てます。何処で会うのか?どのような話をするのかを考えます。
その中で、必ず話さなければいけないことも決めます。

 王の王である神様の前に出るときに、父なる神の臨在の前に出る時に、心の準備無しに行き当たりばったりでは、神は私たちの祈りを喜ばれるでしょうか?

自らの不信仰から出る不安を打ち消すかのような、繰り返しの祈りであってはいけないと思います。自分の願いばかりの一方通行の祈りが多くないでしょうか?一方通行でなく、神の願い、計画も、その時が何時であるかも聞き入れなくてはいけないのです。


 主の祈りを見てみましょう。 第一に、神を賛美し、神の御名があがめられるようにいのります。 私たちの日々の糧の間に、私たちの必要の祈りの前に、神の御心を願い求め、神ご自身の必要を聞き入れなくてはいけないのです。

また悪より守られ救われることを願います。赦しもいのらなくてはいけません。そして私たちの糧を祈りのです。
ただ何年たっても ひたすら赦しを願い祈ることは不自然です。

それは逆に神の救いと購いが不完全であるかのような告白にもになりかねませんから注意して下さい。
神の救いは完全ですから

許しを求める祈りは、ソドムが滅びる前に、神の前に執念深くとりなしたアブラハムのように、人々の救いを・・日本の救い、世界のために祈らなくてはいけないです。

これが祭司の役目としての キリストに在って与えられた職務です。
 
 
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