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2013年12月13日金曜日

主よ.私を哀れんで下さい。私は衰えております。

 
 
 詩編6から
主よ.私を哀れんで下さい。私は衰えております。主よ。私を癒してください。2節



 ダビデは、ハープの調べに会わせて、嘆き、哀れみを神を求めています。私たちも、神に見捨てられたと感じる事はないでしょうか?神からの責めも感じたことはないでしょうか? そうです。私たちは、自分自身の行いでは義とされないのです。神の前には進み出ますが、行いや心の思いの悪さが、神の義の鏡に映し出されると恐れおののきます。
 
行いたくないと思う悪を行ってしまう私たちです。ローマ7:19~25 神の前には、私たちの行いよる義はないのです。神は私たちに律法を与えられました。旧約の律法は未来に対する罪と救いの導きの羅針盤です。新約の律法は過去からの救いとキリスト・イエスのある律法です。旧約の人、ダビデは未来への救いの導きを叫んでいます。罪の重荷からの救いを求めています。また敵からの攻撃に対してもおののいています。 何時。助けが来るのか分かりません。あなたはいつまでおののくのでしょうか?神の力を求めるときに、より深く神を求めて、礼拝に導かれるのは誰でしょうか?父なる神であり、聖霊様であり、私たちの主イエス様です。時に味わう不安や恐れは、神への礼拝へと導きます。

 あなたの骨はくじけそうですか? 神は、エゼキエル(28:12~17)に枯れた骨に向かって呼ばわって預言せよとも言われました。 私たちの主観では判断できないことを、神は見ておられます。未来を見ておられます。問題からの救出になんと時間がかかるのだろうかと嘆かなくても大丈夫です。試練の最中には、神は自分のことを忘れたかのようにさえ感じます。信仰も力付き、底を付いた感じもするでしょう。自分が忘れ去られたかのように感じます。人の感覚では遅れていると思うような事でも、神の時間にはストップはないのです。時間経過の感覚が、神と人と、大人と子供の時間感覚です。遅れていると思っても、忘れ去られて事ではないのです。人の千年は、神の一日です。

 神と人の時間の誤差を縮める方法は、親密な関係を保ち築くことです。私たちは愚かにも、同じ過ち罪を繰り返します。教訓を生かすべきです。アブラハムは妻を2度も人の手にわたしました。私たちの行いでは癒されません。
神の助け、介入が必要です。キリストの十字架の救いによる癒しが必要です。ダビデは信仰によって未来の救いを確信しました。アブラハムもただ信仰によって義とされました。彼の行いではなかったのです。

ダビデ自身の枯れた骨に向かって預言をしました。恐れおののきから一転して、未来の自分を見たのです。
『主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞き入れられた。主は私の祈りを受け入れられる。』8~9節
いかなる状況下でも
神はあなたに言います。『子よ。安心しなさい。私はあなたの側に居る。』と・・


                      

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