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2014年1月6日月曜日

@ 拠り所が壊されたら 詩編 11

心の直ぐな人を射ぬこうとをしている。
拠り所が壊されたら正しい者には何が出来ようか。詩編11:2~3


 ダビデは、彼に襲いかかる敵に対してのあざけりの声を聞きました。神に身を避けているにもかかわらず、あざける声を聞きました。 ダビデの信じる天地創造の神。

父なる神をあざけるかのような声を・・彼だけなく私達にも、彼と同様な声を聞きましす。そのキリストを棄ててしまいなさいと・・
信じても何になるとか・・



 確かに試練は来ます。または、あなたの信じ方はおかしいと言われたりもします。誤解や中傷あります。でも、そのよう時には、聖書を調べてみましょう。神の言葉の確かさを見ましょう。

使徒行伝17:11 聖書を、私達が調べるように、神様も私達の心を調べます。「その瞼は、人の子を調べる。主は正しい者と悪者を調べられる」詩編11:4~5

 
 同じ聖書。神の言葉であっても、受け取り方には、違いが出てきます。それは神の目からの解釈、人の立場からの解釈で微妙に違いが出てきます。その人の経験や思考の影響は否めません。神の言葉。聖書は、主の心、神の考え方から発せられました。
神のお気持ちになって、神の立場から理解をしなければと思いませんか?

 それにしても色々の困難、試練がありますね。ダビデも幾多の試練を受け、またダビデも過ちもしました。そのたびに、神の元に立ち返る悔い改めをしました。私達に完全ではないですから、過ちは犯します。

 けれど試練は、神に愛されている事を知るためにも起きる試練があります。「試練や患難は、私達を神に近づけます。ローマ5:3~4」また信仰を深める試練もあります。ヤコブ1:2~3

 悪魔の試みは、神に対しての不信感を増し加えさせて、私達の無力さを噛み締めさせては、神から離れさせようとして働きます。また、私達の過去の罪を告発して、私達の無能さを思い知らせようとします。

 また『隣人を愛しなさい。』と、神は語っておられます。しかし無用に、戦いを挑んで、隣人に対して怒りや憎しみを植え付けさせようともします。


 神の救いは完全です。神は、私達を私生児として扱いません。その試みや懲らしめが大きければ大きいほど、本当に神の子である事を確かめる機会となります。

 神からの試練は神の子としての取り扱いである特徴があります。ダビデは、洞穴で寝入っていたサウルの衣を切っても、命は取りませんでした。

その時点のサウル王。神の立てられた権威に対する服従の念からでした。ダビデが試練に勝利したように、神は私達の心を見られます。神に愛される人になりたいですね。

2014年1月5日日曜日

@ 詩編10より 苦しみの時、なぜ、身をかくされるのですか

  主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。
苦しみの時、なぜ、身をかくされるのですか。 1節


 当然、思いもよらぬ事が、身に襲いかかります。

 かって経験したことのない地震と被害が北日本を襲いました。
この様なときには、とんでもないデマや風評もあります。
神の裁きだと言い出す人もいますが、決してそうではないと思います。

 突然の病気、いわれのない濡れ衣。経済的な苦難、誰かに誤解されたり、私達が行っていることに対する事への不理解などがあります。私達を落とし入れようとする動き。私達に対して高ぶった意見、デマなどで困惑させたりもします。

 理解を超えることが日常茶飯事に、神が関わって頂けないような気もしてきます。次々と問題が起きてくるからです。
ヨブに意見を述べた3人の賢者のように優れた意見で、私達を責めたりもします。神が居るなら,あのような地震や津波があったのだ!と文句も言う方もいます。

 神は黙認をしておられるかのようです。祈りや嘆きにも、神は耳を傾けてくれないのですか?。祈りは天井に跳ね返るように帰ってきてしまいます。急にむなしさにも襲われます。

 主よ。立ち上がって下さい。神よ、御手を上げて下さい。
どうか、貧しい者を、忘れないで下さい。12節

 神は私達の叫びを聞き届ける耳と力をお持ちです。
よく思い起こせば、神の姿に似せて創られたことを・・
耳や目が神に似せて創られたのですから・・

 悲痛な状態下で、神を求める事は苦痛にも似ています。
祈りたくても祈れない。神は私達を忘れられたのでしょうか。

 懸命に祈る事が出来なくなります。目は曇り、耳はふさがれたかのように感じます。困惑の中でただ涙があふれるだけです。
神は何事にも無関心で、答えられない気がしてきます。

 時として、神は私達が苦痛に圧倒されることを許されることがあります。それも、私達を暗黙の暗闇を通されて、神ご自身が実は近くに存在しておられる事を、私達に知らされるために。

 身近におられる神を、私達自身が見つけるために導かれるために、暗黙中を通されます。そのことによってより深い信頼関係を築く為に。そのことによって、より一層、私達を強く愛しておられる事を知らせるために。

 アブラハムが神の捧げ物を用意しました。けれど、最初に来たのは,神では無くてカラスがきました。望む事。神は直ぐに来なかったのです。次は来たのは睡魔です。彼は自分と睡魔と闘います。待ちくたびれる真夜中に,神は、火をもって,アブラハムの捧げ物 生け贄の間を通られたのです。

     YouTube動画   ⇒Foot print 足跡 私の作成した動画をご覧下さい。   

 私達は、自分の感じる事だけに頼ってはいけません。

 感覚や感動では神を信じてはいけないのです。 信仰は感覚や感動だけでは信じても、時間。年月が過ぎますと、それらは薄れてゆきます。

 神を感じなさいとか、聖霊を感じなさいと勧める方もおられます。それは、それで大切です。

 しかしそれ以上に、感覚とか感情以上に大切なこと。
神の言葉。聖書によってのみ、その言葉を信じることによって、
培われ養われる者です。子供のいないアブラハムは、神からの言葉を信じて、義とされました。創世記15章6

 神の臨在は感じないで、被い隠されていても、主の声が、あなたの耳に直接、聞こえなくても。

しかし、主はその陰にはおられます。 私達を昼も夜も、寝ているときにも、私達を守り続けておられるのです。 迷ったら,聖書を読みましょう。聖書の・・神の言葉を待ちましょう


詩 46:5 神は、その真ん中にいまし、その都はゆるがない。
神は夜明け前にこれを助けられ・・と書かれています。

 私達が罪を犯して、神から離れているときにでさえ、主エス様は、父なる神の前にとりなして下さっておられるのです。信仰が無くならないように、私達のために祈って下さるのは、他ならぬ主イエス様です。 

周囲の激しい変化にも恐れないで下さい。主はインマヌエル。 共におられる神です。

 あなたの中にある暗黒をすなおに、イエス様に語りかけて告白し、神を待ち望みましょう。

 アブラハムが暗闇の中で,カラスや獣を追い払い、失望しかける睡魔とも闘いながら,神の臨在を持ち続けたのです。