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2014年1月28日火曜日

@ 誰が、あなたの聖なる山に住むのでしょう.詩編15より


主よ。誰があなたの幕屋に宿るのでしょうか。
詩編15:1

 ダビデは賛歌としてこの詩篇を詠いました。

 彼ダビデは神の幕屋に誰が宿れるのかを聞いています。聖なる山、神殿の建つ山に住めるかを聞いています。普通の常識を越えて・・当時は幕屋、神殿は聖域でした。大祭司が年に一度だけ、それも一時だけ入る事だけが許される聖域でした。その所で間違った行動をするならば、たちどころに神の臨在で死んでしまうほどの聖域でした。

 でもダビデは、そんな聖域に住みたい宿りたいと願ったのです。本来は不可能な場所でも、神に近づきたい願いがあったからです。神に近づき臨在に満たされるなら。 交わり続けらることが、彼の願いでした。神の臨在に触れられて死を覚悟してまでも・・例え不可能であったとしても・・ 彼の熱心はそれほどに強かった告白です。

 私達は、彼ダビデほどの熱心を持って、神を礼拝するために近づこうとしているでしょうか?何か自分の願い達成だけのために、神に近づいていないだろうか。 神が神であるが為に、礼拝するためだけに、飢え乾きを持って神に近きましょう。

今日の私たちは、イエス様の血によって、自由に聖所に入る事が出来る万人祭司なのです。その価値を再認識しましょう。ダビデは願っても出来なかったことを、私達はイエスの血を通しての身分を頂きました。この素晴らしい地位を認識し、イエス様の血潮の価値を痛感しましょう。

その価値を身分を守り得る資格も書いてあります。

正しく歩み、義を行い、心で真実を語る者。と書かれています。クリスチャンとして、襟をただしましょう。言葉を持って人をそしらす、友人に悪を行わないと書いてあります。 隣人の非難を口にしない人とも書いてあります。

 今はネット社会です。私がある検索で調べていると、クリスチャンが、クリスチャンを非難しているしているサイトに突き当たりました。とても悲しい気持ちになりました。ネットは書いた本人が削除しない限り、いつまでも残ります。その非難に対しても同調して賛成意見コメントを述べている者もクリスチャンでした。臭い物に蓋をせよとは、私は申しません。

事件を侵した者は、国の法律で裁かれます。私達もそのような似た事件を、いつ犯すとも限らない弱い存在です。ネットで・・またその他のメディア媒介で断罪する者、同調して非難する者の心は晴れるでしょう。未信者が偶然。そのサイトを見たらどのように思うのでしょうか。 事件性のないことで、教理に関して、信仰姿勢に対しても非難と断裁しているサイトも悲しくなりました。非難さえ避け、協調し過ぎなければ、三位一体の神なのです。何処かで一致点が見つかるのです。




それよりも、神の国が落とし入れられ、傷つく気がします。悲しむのは十字架にかかってまでも、私達のためにとりなして祈って下さった、イエス様ではないでしょうか?神の国の法律は許しと、その罪を犯した、まちがった人のために、とりなして祷りを捧げることなのです。 非難と断罪ではないのです。断罪は、神のなさる事です。私達は罪からの回復を祝して祈り願う者でありたいです。

 神は隣人の為にとりなして祈って・・万人祭司として人々を愛する事、仕える事を願っておられます。この詩編15には、他にも神殿、教会に住む者、集う者への警告でも在り、神の願いでもあります。キリストの体を通して、教会に、神の神殿に住んで欲しいと願っておられる神の願いと条件です。 私達が聖霊の宮として、神が住める体に変えられてゆきましょう。ダビデの熱心を追いながら・・

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