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2014年3月19日水曜日

@ 詩編21より 喜びは・・


21:1~4 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。 セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。
     

21編は、とりなしの賛美です。

祭司や会衆が、王であるダビデに、生ける神が,ダビデに働いておられる事の喜びと感謝賛美を捧げています。

神がおられ、ダビデを支えておられる事。王を支えるので、国民である会衆からの感謝の声が、
キリストへの賛美なっています。

私達は、キリストの十字架の贖いによって、神の国の民となっています。
私達はキリストに栄光が増し加わるように祈り、かつ、その栄光が実存していることを
感謝しなくてはいけません。

キリストの冠は栄光の純金です。私達は永遠の命を求めました。そして、与えられています。王であるキリストに願う願いは、決して退けられません。

 時々 祈ったけれど答えがないからと失望なさる方もおられます。

答えがないのではなく、既に王であるキリストによって与えられているからです。

では何故でしょう?探し方が悪いと見つからないのに似ています。
沢山の祈りの答えが既に、私達の周りに来ています。 探し方ら悪と見つからないのです。

リアリティーを捜しましょう。それは信仰によって得られる、捜せるのです。助けてある聖霊様と
ご一緒に捜しましょう。  リアリティーを待つ間に大切な事があります。 
あなたの信仰の成長です。また賜物として活用できる段階的な成長です。

 ダビデに油注がれてから、サウルのところに連れてこられました。しかし、ダビデは直ぐに王になったのではないです。試練苦難、死の谷を歩みました。
でも、既に神からの油は注がれていました。
またダビデも色々の経験を通して、神への信頼を育ててゆきました。

 神はアダムを創られました。  

アダムは、私達の創造主の期待から外れたことをしました。けれど、神はそのアダムに救いの道を備えて下さいました。 アブラハム、ダビデ、キリストを通してその計画は実行されました。
私達も母の胎の中で創られました。救いの約束されて、私達は生まれました。
しかし、私達一人一人が,その救いの約束に対しての告白して信仰を その救いを受け入れなくては確定されないのです。

主キリストを、私達が信じる事は、キリストの栄光となります。
だが、主の栄光を奪おうとして、霊的な戦いはあります。その矛先は、信じた私達に向けられています。
敵とはサタンです。9節には、敵を徹底的に、飲み尽くすと書いてあります。 

気を緩めることなく、神に賛美と信頼を重ねましょう。私達の捜し物、現実性を奪い隠すからです。
敵の一番の方法は、私達に失望感を与えてダメージを加えるのです。
信仰の人。ヨブも試されました。 妻からの神を呪って見たらと唆されて・・

 私達も試されないことを祈るべきです。と言って 試されることをおそれてはいけません。

詩編21:6~7
あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。

 私達は、王なるキリストに支えられて、信頼を学び知り、答えを探し出して、喜びが実現するのです。

詩編21:13
主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。

  私達の祈り願い、捜し物は、主の栄光が崇められるためにあるのです。

捜し物、祈りの答えが優先であってはいけないのです。 答えが願いが優先であるならば、答えが無いその間。失望感がつのるでしょう。 それでも主をい求める者には、 神が良いとされた時に、神の手からの喜びを得るのです。

 詩編21:6
『 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼(王につながる私達)を楽しませてくださいます。』

2014年3月16日日曜日

@ 父よ。私の神よ。

父よ。私の神よ。


私が生まれた日から、
あなたは私のことを全て知っておられる。

私が幸せで微笑んだことも 人生につまづいて
悩んだ日々をも 嘆き苦しんだ日々。
その涙も知っておられる


私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。

もっと 近くに居たのです。あなたの愛の風を 御霊の翼の風を
受けたいのです。

私が弱いときに、信じる事にもつまずいたり 落ち込んだときに
その翼の風を 私の近くに送り届けて下さい。

その風によって あなたの愛を感じ 救いを受け取れます。

わたしの虚ろな感情によらず,あなたの言葉で 私に近づいて
確信を与えて下さい。 私はここにいますから・・。

私のあなたに,私の父なる神に近づきたいのです。

人生はそう簡単では無く,疲れ苦しい時もあります。
辛い事や悲しいことが続くと、父が私を見捨てたかのように
思ってしまうこともありますよ。

けれど父よ。私の神よ。

あなたの言葉と栄光が,私を生き返られて下さいましたね。
あなたは私たちを決して見捨てない方です。
流した涙のしょっぱさを知って下さいますから・・。

わたしが行くのも 留まるのも 座るのも 全て知って下さいます。
聖なる交わりを慕い求めます。

私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。

私を悪から 絶望から 救い出して下さい。

私があなたに信頼して 信じる力を与えて下さい。
希望を与えて 生きる力からを与えて下さい。

おまえの信じる父親は・・
  おまえの神は力が無いと言わせないでください。

彼らも あなたの栄光を見て信じ
 そして救われるようにして下さい。

父なる神よ。 御心はかならず時を 年月を隔てても
実行なさる父なる神です。


祈りが聞き届けられたことを信じています。
けれど未だ実現に至っていない祈り 願いがありますから
どうか 思いを変えて 御心を変えて下さいませんか?
第一には 神の栄光が現れるようにして下さい。

けれども願わくは私の一生のうちに 
数多くのことを実現させて下さい。

ダビデ、ソロモンに与えた イスラエルの栄光の時と同じように
日本を輝かせてください。 日本人にキリストによる救いを与えて下さい。 私たちの身の上にも あなたの栄光を与え
輝かせて下さい。

父よ。私たちの神よ。
天使が吹き鳴らす 栄光の角笛を聞かせて下さい。
御国のために,私たちを使って下さい。

ただ 私が何も出来なくても 無償の愛を与えてくださった事を深く感謝します。 失敗や過ちを 罪をも許して下さった。

荒野で青銅の蛇を見上げたときに・・ 

 犯した罪を認めたときに
  キリストの十字架の購いを信じたときから

私たちを神の子として下さった愛を感謝します。
私たちは 父へ 私たちの神を讃美します。


あなたに愛されていること もっと知りたいのです。


私の願い。父よ。私の神よ あなたの側に居たいのです。




















                      

2014年3月15日土曜日

@ 聖書 詩編 20章より

詩編20:6~9

今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。

 この詩編は多くのとりなしの言葉。祈りで始まっています。

詩編20:2

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように

神はその住まいとされた聖所に住まい、民のためにお答え下さいと、祭司であり王であるダビデがとりなしの祈りをしています。

私達は、主の答えが確実であることを再確認しましょう。また隣人の願いを知り、答えが与えられるように乗りましょう。

 祈りはその方策ではありません。現代には、沢山のHOW TOが在ります。よりよい結果を得るためのガイド本です。  信仰はガイド本ではないです。 時々。聖書の黄金律を取り上げて,成功の秘訣を語る方もおられることも事実ですけれど・・

ただ、神に信頼に、信頼を重ね手、礼拝し賛美し崇めることです。
祈りは十字架から、既に来ています。与えられています。

 「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」

この世の考え方からですと、聖書、神の考え方は、逆の発想になります。問題の解決をさておいて、祷りと賛美を捧げる。と聖書は教えるからです。

それは、油注がれた者を救われるからです。 王であるダビデを指し、また王の王であるキリストを指してもいます。しかし、それでけではないのです。

私達、主を信じる者は、全て主によって、油注がれた者です。ハレルヤ。

Ⅱコリント1:21 『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。』と聖書は語っています。

 同じく、Ⅰヨハ2:20 『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

Ⅰヨハ  2:27 にも、私達に注がれた油のことが書いてあります。
『あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。』

 そのそがれた油には、あなたに力不足はないのです。 実感がないと思う方もいますか?それは信仰によって、既に受け取っているのです。 あなたの感情ではないのです。
十字架で流された血潮によって与えられているのです。

各自の信仰によって、聖霊の油を沸騰させましょう。沸騰させる燃料は、あなたの情熱の火、信仰の火によって燃やしましょう。

  願い続けるなら 『主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。6節』  
決して不足することなく、あふれ答えられるのです。

2014年3月13日木曜日

失明を乗り越えて

)

祈れば,直ぐに答えがあると思いがち・・その時が直ぐに来ないと,期待が失望に変わりやすいです。
それは私たち中心に考えようとすると失望が来ませんか?                                     
神中心に考えるならば,期待 希望と信仰が育まれますね。癒やしと救い。神の実行には時があると最近。感じて解り始めました。

何年かかっても,癒やしを 救いを期待する心が重要です。ちなみに母がはじめてキリストの福音を聞いてから信じるまで80年掛かりました。母に福音を伝えた方は既に亡くなっておられました。 
母が洗礼を受けた日に,始めてそのことを聞きましたから驚きました。 
その時に神の手が動きます。神は癒やし主で在り、救い主で在ることには変わりまりません。

病気や災害。事故は当然私たちを襲います。原因は様々・・私たちは土の器。健康管理をしていても病にかかりやすい。 神様何故ですかと原因を探りよりは,前向き,新なる神の計画。救い 癒やしに期待して信仰を保っていた方が良いのでは無いでしょうか?


乙女マリヤの告白。
ルカ1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
*******
「神には出来ない事は在りません。御心通りになりますように。」
御心に従う気持ちと,謙虚さ。神さまの御言葉の実行には、時が 時間、年月も必要なとき 待ち続ける必要があることを最近 覚えるようになりました。  
                     

神の計画は未知なる不思議に満ちています。

予言者イザヤに、神は語りました 計画を伝えられました。乙女が 身ごもり私たちの救い主に成ると。。
それを伝えられてから・・何年も過ぎて・・ 神は実行なさいました。
神はその計画をご自身の手でおこなってくださいます。

ただ 願わくは、私たちの一代上で実行されるようにと願うことが多いです。 その一つが,私たちのみに起きた病に対しての癒やしと救いです。 前記の失明して方の身にも起きるようにと願って祈っております。           

2014年3月5日水曜日

@ 詩編19よ

詩編19:1~2

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す

 ダビデは、無言の内に語り伝えられる、神の天地創造の業に驚き賛美しています。
 私もアフリカの大地、サハラ砂漠横断をしたり。大河ユーフラテス河の畔に立ったり、
メソポタミア砂漠、アブラハムの見上げた位置から、星空を見上げたこともあります。
また、日本のアルプス、スイスの山々の頂に立ったりしながら、神の業の素晴らしさに、思いを馳せた事があります。

 大自然の中で、見いだせる神の素晴らしに驚嘆します。人の小ささも思い、神を礼拝に導かせます。そんな思いを抱くのは私一人ではないです。それは礼拝する対象者が、天地を創られた神だからこそです。 単に自然を礼拝する信仰もあります。しかし、山や動物が礼拝の対象ではないのです。

詩19:7~9
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

聖霊によって導かれ、書かれた聖書は言葉は完全です。 聖書を自分の利益を求めて読んでも意味がない。そこにはキリストの証しが書かれている。

書かれた言葉が、生きた言葉となり。キリストから語り掛けられたように思える。涙を流し、ある時には、聖書から新しい夢に出合いニンマリ笑う。またあるときには、アッそうだ!!と驚き、御言葉からの励ましに嬉しくなって賛美する。 

知識、知恵が与えられ、かしこくもさせてくださる。罪を示され驚愕する。悔い改めに導く。放蕩した者を父の元に帰らせる。落ち込んだ者には元気と希望を与えてくださる。
神言葉、聖書は完全です。

詩19:11-12

また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

人は罪の意識がありません。この世の罪を思うからです。神の国の法律は、聖書から理解できます。十戒などが書かれています。今日。色々の考え方が出てきています。律法はユダヤ人だけで、異邦人には守らなくてもよいとさえ言う方もいます。
でも聖書は言います。その報いは大きいと・・    天国に着いて、最後の審判の時に歯ぎしりしても、既に遅いのです。

「知らない隠れた罪を示してください。」と、ダビデは願いました。神、創造主を知らないことも罪です。人は欲に引かれると・・誘惑に落ちいると感覚が麻痺します。それは怖いことです。初めは小さな誘惑、でも結果は大きな罪であり、その人の魂を破壊します。

ネットから各所の情報が、私達の所にもやってきます。 少しだけは・・でも気がつく時には取り返しが付かないこともあります。

ヤコブ1:14-15 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

私達は、隠れた罪、気がつかない罪を許される必要もあります。上司、牧師、友人として何気なく語った言葉は後戻りし、あなたの口には戻りません。その口から出た言葉によって、傷ついて人がいるかも知れません。謙虚さとへりくだりが不足していたかも知れません。 また、いくら傷ついたからと言って、何十年も許さないことも罪となって行きます。

御霊の導きで祈りましょう。

ロマ8:26 『 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』

神は、神の元に返ることを強く望まれた。汚れと罪の垣根を取り除くために、十字架の橋を架けてくださいました。その橋を渡りきりましょう。その道しるべは、聖書の言葉です。

一旦。御言葉の道を歩み始めて、後戻りはしないで下さい。立ち止まることがあっても・・ 
キリストにあなたの重荷を委ねて信じましょう。  自分の十字架を背負いましょう。  

マタイ16:24

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
マタイ11:30 『 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

 神はダビデの告白を喜ばれました。私達も同じ告白に導かれる感謝を捧げます。主よ。

詩19:13-14

『あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。』

2014年2月28日金曜日

@ わが力。私は、あなたを慕います。詩編 18より

詩編 18:1~4
彼はこう言った。主は、わが力。私は、あなたを慕います。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。
死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

 この詩編は、ダビデがサウル王に勝利したときに読んだ神への賛歌です。

サウルはダビデを妬み命を狙う存在でした。しかし、いかなる場合でも、ダビデは主を慕い求めていました。 これは彼の人生を通しての姿勢です。この勝利を得るまでの期間どれ程の月日が流れたのでしょう。この長い年月の間は、神に対して、恨み言は一切はいていません。


ダビデは多くの兄弟の中で末っ子でした。彼の存在と価値は、彼の父親もあまり認めないほどでした。羊を飼いながら、主との深い交わりをしていた少年でした。予言者が油注ぐときにも、父親は彼の存在を忘れていました。でも神は少年ダビデを見いだしていたのです。

あなたは親からの虐待を受けたことがありますか。無視されたことがありますか?
親からでなく、友人から 酷い誤解や酷い言葉を受けた事がありますか。時には上司、牧師からだったりしていませんか。確かに、上記の状況下では、本当に心が傷ついて悲しいですね。 あなたの心の正しさを、誰にぶつけてきたのでしょう。彼は無視したサウル王に対しても忠実でした。自分の手で、サウル王を殺すチャンスはありましたが。殺さずに身の潔白を主張しました。その彼の姿勢は、神を慕う姿勢と信頼から生まれたのです。

ダビデは、神に向かって、『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方。』と告白賛美しています。神に、彼の潔白を主張し訴えては来ましたが、敵から身を避けても、打ちのめすことはせずに、神の手に任せてきました。47節にはこのように告白しています。
『この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。』
 神に対して、親は子を守るために戦うかのような信頼を寄せています。

『わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。』 盾は身を守り、やぐらは身の危険を見守る所です。神は、神に信頼する者に対して、神も彼を信頼します。

ローマ9:15にはこのような神のご性格が書かれています。『神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。』敵となったサウルに対しても、潔白は訴えましたが、殺す事や恨み言は一切、神には上申した祈りはなかったのです。 そんな彼ダビデを神は愛されました。
人を愛する人には、神は深い愛を与えてくださり、哀れみを与える人には、神は、その人を大きく哀れむのです。人のために、祈る人には、イエス様が父なる神の御前で、祈ってくださるのです。

 人が祈りを求めて、その答えを頂くには、人が期待する年月と神の計画にはさがあるときもあります。 『神様は、私の祈りを聞いて下さらない。』とあなたが告白するなら、神は悲しみます。神は親として、子供である私達に選んだもっともよい時期に、答えを下さるからなのです。
詩18:6 『私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。』
 神の目には、あなたの祈りが届いているのです。ここで注視したいことがあります。
神の耳に届いたと告白していますが、ダビデも直ぐに答えたとは書いてないのです。
 でも、でも神の耳に届き、聞いて下さっておられるのです。この間には信頼関係が生まれてくるのです。
詩18:30
『神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾』輝く黄金のように、神の計画、その道筋は完全なのです。純粋にあなたを持っておられるのです。
神から見捨てられたと、どうぞ思わないで下さい。

詩18:32~33
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

神は「あなたの道を備え整える時間が要るのだよ。」と答えておられます。
詩18:35
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

  ダビデは、神様のことを謙遜な方だと告白していることに驚きます。その神の謙遜が、私達を大きく育てるのです。 私達が、問題や自分の祈りを手放すときに、神は動きやすくなり、ご自分の意志で働きやすくなるのです。  神はあなたのために、あなたの祈り、指示ではない戦いをして下さるのです。 その間は、あなたの人生に芽が出るまでの期間も要るでしょう。桃とかクルミの種。身の固い種がありますね。芽が出るまでの間、結構長い年月が要ります。しかし、固い殻が腐敗から種自体を守っているのです。あなたを襲う人生の様々な出来事から、神が、堅固な殻のようになって、あなたを守っておられます。 
 ダビデは哀れみの心を多く抱く人でした。このような物語が聖書には記録されています。
Ⅱサムエル9:11
ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。

サウル王の血を受けぐ孫を保護して、一緒に同じテーブルで食事をしたのです。
 ダビデは、哀れみの心を多く抱いた人でした。自分の敵の血を根絶やしにしないことは、将来。命を狙われる可能性もあった時代です。 そのようなダビデを哀れみ深さを持ったいたので、神は守られたことも心に据えて頂きたいのです。あなたを傷つけた人々に対しても、どうぞ、哀れ者心を持てるように、祈って下さい。神はあなたを哀れまれます。
あなたの盾と成り、あなたを支え守られます。

2014年2月18日火曜日

@ 詩編17より

詩編 17:3

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。

ダビデは賛美と祷りを捧げています。

主は私達の心の内を調べられます。神は私達の忠誠心、聞き従う心を調べられます。
主は彼を調べられ、間違いがなかったことを主張しています。でもダビデの人生には汚点は決した無かったのでしょうか?それらは聖書に書かれています。

  


では何故。主は彼の人生の中での罪、汚点を見いだせなかったのでしょうか?

そうです。彼は悔い改め、手の救いを確信したのです。キリストの十字架の贖いを、彼は既に確信していたのです。彼の行いからではなく、ダビデの時代ににはなかった、キリストの十字架の救いを見てはいませんでしたが、確信していたのです。

ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

4節には『あなたのくちびるの言葉に依った。』と書いてあります。わたし達は人としての考え方、例え。それが善意からの忠告、進言であったとしても、それらの言葉の基準が聖書に依らなくては、真の善意、教えとは言えないのです。

 『神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。詩17:6~9

 私達も日々。神を呼び求めて礼拝し祈り、賛美をします。神は礼拝を通じて賛美の言葉を聞きたいのです。神との関係を深めることが、神ご自身の望みです。ハレルヤ!!神は耳を傾けて聞いて下さるお方です。人の手で造られた偶像の神々とは違い、その耳で聞いて下さるのです。あなたが、神の御名を崇めるときに、御業を見せて下さいます。

この事は『主の祈り。』でも第一に教えておられます。

主の側に身を避ける者を、主の右に立たせてかくまって下さるのです。

あなたが喜んでいるとき。悲しんでいるとき。あなたが傷つけられているとき。
怒っているとき。あなたが、だまされ落し入れられたとき。争っているとき。
あなたが罪を犯しているとき。悔い改めているとき。あなたが落ち込んだとき。
失望しているとき。あなたが苦しみの時。病の時の苦しみの時。あなたの右におられます。

「私は罪を犯しました。あなたの掟は暗闇。罪の仮名では一層清く,輝きます。罪を犯したときには,その心が萎えて衰えます。あっ~ 私は何て事をしたのだろうか・・。貴方との距離が遠くに感いられます。私の犯した罪・過ちのためです。

それでもイエスは、あなたの神です。昼も夜も・・あなたの神です。
あなたを支えておられる神です。あなたの右にいて、救いの手をさしのべています。
少しだけ、罪を犯しているときの渦中の中では、あなたが気がつきにくいだけです。」

『私を、ひとみのように見守り、御翼の影に私を守ってください。私を襲う悪者から。私を取り巻くどん欲な敵から』と書いてあります。詩編17:8~9 

神は片時も離れず、私達を注視しておられる事を信仰によって感謝する事は重要です。 
私達を襲う、どん欲な者とは、神から私達を切り離そうとして多種多様の問題と病をもたらすサタン、悪霊達です。 しかし、そのそそのかしや誘惑に乗ってしまうのは、各自の責任なのです。

色々の問題が来たときに、真っ先に、神を仰がずに神の助けを期待して賛美しないうちに 
心の中が問題や病の苦痛で一杯、不安が先立ちます。それらに心の中が翻弄されてしまいます。 すると神が見えなくなります。 

神に祈っても答えられない。と嘆く方も大勢おられます。 それは、神を見ないで、問題を見て祈るからです。 この時の状況下では、心の中は微妙で複雑ですよ。確かに・・ 

「私達はよくこの様に祈ります。これこれを与えて下さい。これこれを、この様に解決して下さい。」と祈りますが、視点を変えて下さい。

それらは既に、十字架を通して与えられ、御霊によって私達に個人個人に既に与えられているのです。私達に与えられているものを、今更もとめても答えはないと言っても過言ではないです。既に与えられていることは感謝をすればよいのです。

エ!ちょっと待ってと言われる方もおられますね。じゃ何故問題が解決しないのですか?と思われるでしょう。 

17:15節 正しい訴え方をして、御顔を仰ぎみましょう。 

では正しい訴えとは何でしょう。十字架を通して約束された全てを信じて、その通りになるように訴えることです。私達は、問題や病は十字架で解決されているのです。それらを目の前に置いて、自己実現の助けを御霊の助けを祈る事が大切です。 

「問題や病を癒やしてください。」とそれらの問題を山積みの問題として 祈るのではないのです。 マタイ10:8には既に与えられて者として実行するように命じておられます。『 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』


解決された問題として賛美しつつ、十字架の現実を私の人生に実現を下さいと タイムリミットを設けずに祈り求める事で、親子関係=神との関係が構築されることは、神の望みです。

 色々の問題に関しては信仰を働かせて下さい。ヘブル11:1 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』とも書いてあります。 

これは、パンを作る材料が与えられているのと同じです。麦をひき、小麦粉に変え
パン種を入れて発酵させて焼いてから、私達はパンを口に出来ます。この原動力は信仰です。料理やパン作りを始めるときには、既に心の中でどのようなパンなのか、料理なのかを描き作ってから始めるのです。その結果。あなたは現実に食べられるのと同じです。心に描いたことは霊の世界では実現しているのです。

十字架を通して与えられた麦を、私達の信仰で粉に変えて、キリストの言葉のパン種を混ぜ合わせて、私達の人生で練り合わせ、聖霊の日の釜で焼き上げるのです。信仰と確信が全ての原動力なのです。

また確信しないとは、簡単に言うなら、「十字架で全ての罪が許された、私はあなたの罪を解決した。十字架の血潮で癒やされた。」とイエスが宣言したのにもかかわらず、 
その人が死ぬまで、「私の罪を許してください。問題を・・癒してくださいと」といつも、いつも祈り続け、罪や問題。病の恐怖から逃れないことに似ています。 

現実を見れば、確かに目の前には色々の問題。苦痛があります。けれど賛美を通して、完成された感謝を捧げることが、もっと大切だと思います。 一見。遠回りのようですが、賛美は解決を手にする真実な近道を見いだす解決策です。それが賛美確信です。 
あなたの十字架の全ての癒しの現実を仰いで、神を賛美してください。 

 15節には目覚めるとも書いてあります。主を信じた者は、主の前に目覚めます。それは永遠の国での目覚めです。ハレルヤ!!その目覚めの反対語は、眠るです。

キリストを拒否して亡くなった者は永遠の眠りです。元々。永遠の滅び。地獄は、サタンのために用意された所です。アダムにその約束、救いを契約したのは神ご自身です。

神はこのような永遠の眠り、滅びる人を一人でも亡くしたいと望んでおられます。隣人に福音を語りまししょう。

 あなたの上に、家族友人の上にも祝福が豊かに在りますように。